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ホサナ [著]町田康

[評者]円城塔  (作家)

[掲載]2017年07月09日

[ジャンル]人文

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■わかるとはどういうことなのか

 いまさらながら、日本語とは不思議なものである。
 ちょっとながめるだけでも、漢字と平仮名、片仮名がいりまじっている。なんならアルファベットをまぜることも可能だ。
 日本語の文章は明治期あたりから急速な変化にみまわれ、今も模索が続いている。言文一致運動を持ち出すまでもなく、語り口というものは勝手に生まれてくるものではなくて、苦心の末に見いだされるのだ。
 たとえば、バーベキューという単語には個人的におかしみを感じる。理由は定かではないが、とにかく口の端が持ち上がる。人の心や体を動かす以上、これは言葉の力といってよい。
 むりに理屈をつけるなら、バーベキューという外来の単語がまだ、日本語になりきっていないから、とでもなるのではないか。
 それとは逆に、日本語の中から生まれてきたもののはずなのに、変に笑いをさそう単語もあって、「ひょっとこ」「くるぶし」などがそれにあたる。理由は知れず、それだけを突然つきつけられると、なにかおかしくなってくる。おかしさの源はよくわからない。
 こうした単語を目にすると、日常利用している日本語がぐらつく感覚に襲われるのだが、言葉にぐらつかれるのはやっかいだ。
 単純に、何を言っているのかがわからなくなる。
 だから、先のような単語が頻出する本作が何を言っているのかも、ほぼわからない。いや、登場人物たちが何をしていて、何が起こっているのかはわかる。色んなことはわかるのだが、どこがわからないのかだけはわからない。
 時間をかけて整備されてきた語り口が解体されると、時間が逆回転するような感覚が起こり、小説は原初へ向かう神話的な姿に近づいていく。
 本作に書いてあることが全然わからないという向きには、普段読んでいる文章をわかっているとは、一体どういうことなのか、一考をおすすめしたい。
 評・円城塔(作家)
    ◇
 まちだ・こう 62年生まれ。作家、パンクロッカー。『告白』(谷崎潤一郎賞)、『宿屋めぐり』(野間文芸賞)など。

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