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東芝 原子力敗戦 [著]大西康之

[評者]諸富徹(京都大学教授・経済学)

[掲載]2017年08月27日

[ジャンル]経済

表紙画像

■「国策」の泥沼、責任とるべきは

 我々が知りたいのは、東芝の決算をめぐる泥仕合や半導体事業売却の混迷ではなく、なぜこの会社が原発ビジネスの泥沼に引きずり込まれたかだ。本書はまさにこの点に、正面から迫る。
 当初、東芝の問題とは粉飾決算のことだとされ、歴代三社長による「チャレンジ」なる用語が一世を風靡(ふうび)した。ところがこれは、米国原子炉メーカーのウェスチングハウス社(WH)の経営危機を隠すための、巧妙な陽動作戦だった。
 実は国際的には、すでに原発は儲(もう)からないビジネスとなっていた。原発安全規制が強まり、そのコストが嵩(かさ)む一方、シェールガスや再生可能エネルギーの価格低下が起き、原発は競争力を失った。WHは、米国企業も英国企業も手を焼いて手放した代物だった。それを東芝は、三菱重工と競って高値づかみしたのだ。
 なぜ、そんな会社を東芝は子会社にする必要があったのか。東芝を、国策としての原発輸出に引き込んだのは、経済産業省だった。WH買収は、日本の原子力産業が海外飛躍する切り札のはずだった。だが、国策は不発に終わり、開けてみればWHは火の車だった。
 著者は、少なくとも二度(2009年と、11年の福島第一原発事故後)、軌道修正のチャンスがあったと強調する。だがそれも、「これは国策だ」の大声にかき消される。東芝が代わりに取り組んだのが、「原発の将来は明るい」との強弁と、損失をなかったことにする会計操作だった。
 著者は、東芝が危機に陥った原因を、「サラリーマン全体主義」に見いだす。「チャレンジ」という名の粉飾指示に、唯々諾々と従った一般社員たち。国策と心中しつつも、その当否判断から逃げる幹部たち。だが、判断を預けられた官僚たちも、惨憺(さんたん)たる結果に責任を取ることはない。
 思考停止、無責任、同調主義、こんな「サラリーマン全体主義」から脱却できるか否かに、東芝再生の未来はかかっている。
    ◇
 おおにし・やすゆき 65年生まれ。ジャーナリスト。元日本経済新聞編集委員。『稲盛和夫 最後の闘い』など。

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