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湯殿山の哲学―修験と花と存在と [著]山内志朗

[評者]野矢茂樹(東大教授)

[掲載]2017年09月03日

[ジャンル]人文

表紙画像

■故郷の呼び声で現れる「私」

 湯殿山は存在の襞(ひだ)だ、と著者は言う。
 私は一応哲学をやっているが、曖昧(あいまい)で晦渋(かいじゅう)な言葉に出会うとたいてい不愉快になる。しかし、この本の言葉は、ときに難解ではあっても、心地よかった。それはおそらく、その言葉が一貫して切実な響きを帯びているからだろう。
 著者は湯殿山の麓(ふもと)、谷あいの山村に生まれた。湯殿山は信仰の地である。「山内」という姓は、その霊域に住む者であることを示している。霊域に育った少年は、やがて東京に出て、中世スコラ哲学を専門とするようになる。そして再び、西洋哲学を携えて、湯殿山へと回帰する。著者はそれを鮭(さけ)の遡上(そじょう)にも喩(たと)える。遡上した哲学者が、故郷の記憶を、湯殿山の自然と歴史を、そして張り裂けそうな思いを、綴(つづ)っていく。
 その源流への回帰が、「存在」への回帰として語られる。ここに本書の核心がある。一方では、「この私」が他のものに代えられない個としてある。同時に私は一般的に「人間」としても捉えられる。私はまた、さらに一般的に、「生物」として捉えられもする。そして最も一般的な捉え方として、「存在」という概念がある。だがここで、「この私」という個の極と「存在」という一般性の極がくっついているとしたならばどうか。二つの極は遠く離れているように見えていながら、実は一つのものだったとすれば。
 「存在」という概念は生物であれ無生物であれ何にでも当てはまるために、むしろ無内容に見える。だが、存在はけっして無内容なのっぺらぼうではなく、襞をもっている。その襞が開かれ、そこに人間という姿が、あるいは山や樹々(きぎ)という姿が、そして「この私」という姿が現れてくる。だから、私が私に出会うためには、存在へと回帰していかねばならない。
 山内さんは、湯殿山という存在の襞を意識する以前から、湯殿山を心身の奥深くに染み込ませていった。その呼び声に耳を澄ませ、湯殿山に包まれ貫かれながら、彼は湯殿山のことを語り出す。いや、そうではない。湯殿山に語らされているのだ。それによって、そこで自分自身に出会うのである。
 私はといえば、東京郊外のベッドタウンで育った。湯殿山はない。筋違いとは承知しつつも、そのことが少しくやしい気もしないではない。だが、微(かす)かだけれども呼び声が聞こえる。私という現れを見せてくれている存在の襞。本書がその声に気づかせてくれる。この本は、山内さんの故郷と少年時代を綴った、とても個人的な本でありながら、どんな読者にも届く普遍性をもちえている。
    ◇
 やまうち・しろう 57年、山形県西川町(旧・本道寺村)生まれ。慶応大学文学部教授(中世哲学)。著書に『普遍論争』『天使の記号学』『存在の一義性を求めて』『ライプニッツ』など。

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