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性食考 [著]赤坂憲雄

[評者]椹木野衣 (美術評論家)

[掲載]2017年09月17日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■容赦なく開陳される生の循環

 レストランやカフェで、ネットに投稿するため注文した品を写真に収めるのをよく見かける。うまく撮れれば、きっとたくさんの「いいね!」がもらえるだろう。でも、食べかけを進んでネットにあげる人はいない。見る方だってそんなのはごめんだ。手をつけてからでは遅いのだ。でも、どうして食べかけではダメなのか。食べている時が最大の喜びではないのか。
 そこには、食べることをめぐる根源的な両義性が影を落としている。どんなにおいしそうな料理でも、食べることができるのは「私」だけだ。外見こそシェアできても、味わうことの快楽や滋養は独占するしかない。
 食べかけとは、その一部が私ではない誰かの体の中に取り込まれ、一体化しつつある「現場」にほかならない。そこには、独占することの喜びがべったりと張り付いている。
 著者は、そのことを「食べちゃいたいほど、可愛い」という言葉の持つよじれた響きから語り起こす。それは、親が子に注ぐ、恋人同士が囁(ささや)き合う、この上ない愛の表現だろう。なのに、どうしてこんなに不穏なのか。愛が献身を意味するならば、食べることと愛することはむしろ逆の行為のはずだ。それがなぜ、最大の愛情の表現において一致してしまうのか。
 著者は、そこに殺害と性交の影を見る。そして、多くの民俗学の語りや文学の言葉を引きながら、食べることは生き物殺しを前提としていること、殺してまで生き延びなければならないのは、子孫を得る生殖のためであること、これらのすべてが、性と食をめぐる人ゆえの業の深さであることを、ゆっくりと、だが容赦なく開陳していく。
 食べること、殺すこと、交わることは循環している。その循環は、避けがたく血なまぐさい。だが、一瞬だけ切り取れば、きれいごとにできなくもない。「いいね!」と言えなくもない。食べかけは、この建前を壊してしまう。どんなにきれいに飾られていても、実はなにものかの死骸ではないか。そのことを隠すために「文化」は発達したと言ってもいい。だが、この隠蔽(いんぺい)は少しでも崩れれば効力を失う。皿の一点の血の汚れが、それを暴露する。
 福島での原発事故で食べ物が汚染された時、私たちは食べることをめぐる、この共有の不可能性にかつてなく直面した。著者も、そのことをきっかけに食をめぐる自然の風景が内から激変しつつあることを指摘する。昨今の感染源の特定できないO(オー)157の拡大も頭をよぎる。食べているつもりが、菌に食べられているかもしれないのだ。ふと、食べることの不気味さが浮かび上がる。
    ◇
 あかさか・のりお 53年生まれ。学習院大学教授(民俗学・日本文化論)。07年『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞。著書に『排除の現象学』『境界の発生』『東西/南北考』など。

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