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ゴッホの耳―天才画家 最大の謎 [著]バーナデット・マーフィー

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2017年11月19日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■素人探偵の異常な骨折り損?

 時間を持て余しているひとりの退屈な暇人が、たまたまゴッホが住んでいたアルルに近い土地の住人であるという理由だけで、ゴッホの絵をあまり見たことも関心もないというのに、あの有名なゴッホの耳切り事件に異常な興味を覚えて、研究者も顔負けの追跡調査を始めた。
 アルルに住んでいた1万5千人以上のデータベースから膨大な情報を得て、この一風変わった事件の全容解明に何千時間も費やす。美術の専門家でさえ今さらさほど重視しないと思うエキセントリックなエピソードに全身全霊取り組むその執念はまるでFBIだ。
 当時の警察でさえ軽く素通りした出来事を128年後にこの偏執狂的素人探偵が再発掘。
 全容の解明に7年間の歳月をかけて、ゴッホの耳切り事件がなぜ起こったのか、その理由は? 意味は? 目的は? と問いかけていく。
 ゴッホの耳がスコーンと全部切り落とされたのか、いや耳たぶだけなのか、凶器がナイフなのか剃刀(かみそり)によるものなのか、切られた耳を献上した相手が娼婦(しょうふ)だったのか娼館の掃除婦だったのか、どっちでもよさそうなそんな疑問を執拗(しつよう)に追いかける。
 本書の主題はあくまでも耳切り事件の真相の究明のはずであるが、そんなことよりも、著者の偏執狂的かつ俗臭性に僕はあきれ果てて、この猟奇的事件に全人生(?)をかけて追求していくそのひとりの人間の執念に視点が移されてしまった。
 耳がどうした、こうしたというような別に犯罪でもなく犯人がいるわけでもなく、真相(?)がわかったからとて、ゴッホの芸術の評価が根底からひっくり返るわけでもない一見無駄!としか思えない事柄に、ここまで情熱をかけるその精神的根拠は一体どこにあるのか? 興味尽きない著者への関心である。
 著者は様々な事象を結びつけながら迷路の底に墜(お)ちていく。真相解明が複雑化する。寄せられる情報の中にはガセネタもあるだろうし、そんなものに振り回されながらも終わりのない結論に向かう。
 しかし著者はこのプロジェクトで価値ある多くの経験と収穫を得たと満足げに語る。
 本書のエピグラフに著者はシェークスピアの『恋の骨折り損』から次の言葉を引用する。
 「真理の光を求め、大変な思いをして本にかじりついたとしても、そうしている間に真理に惑わされて目が疲れ何も見えなくなってしまう」
 この言葉に著者自らの本心が露呈しているように見えなくもない。ゴッホの耳に恋した著者の行為が果たして「骨折り損」であったかどうかは読者の決めるべき問題ではなさそうだ。
    ◇
 Bernadette Murphy 英国生まれの作家。成人後、南フランスに移住。様々な仕事に従事しながら、アルル時代のゴッホについて調べ始める。本書がデビュー作。

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