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老愛小説 [著]古屋健三

[評者]佐伯一麦 (作家)

[掲載]2017年12月10日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■全編に満ちる多彩な匂いの表現

 スタンダールの翻訳者として知られ、内向の世代についての文芸評論もある古屋健三氏の初めての小説集で、「虹の記憶」「老愛小説」「仮の宿」の三つの中篇(ちゅうへん)を収録している。2002年から08年にかけて文芸誌に初出された際に、評者はその都度強い印象を受けたこともあり、長い歳月を隔てて単行本化されたことはよろこばしい。
 3作の主人公に共通しているのは、フランス留学から帰国し、大学で教えている点。古屋氏も60年代初めに4年近くグルノーブル大学に留学しているので、作者自身の反映があるのは確かだろう。かつて古屋氏は遠藤周作における留学の意味に触れて、〈要領よく西洋と接し、身に合ったものだけを摂取して、肥え太って帰ってくるタイプの留学〉ではなく、〈逆に養分を吸いとられ、体をこわして、はじきかえされてくる体験〉こそが真の留学だと論じていた。後者の留学体験は、本書のいずれの主人公の内面にも決定的な蔭(かげ)を落としている。
 傍観者的な主人公の立ち位置が巧みに描かれているのが表題作の「老愛小説」である。大学の教員室で、〈夫婦が老いを意識するのはどういう局面〉か、という話題となり、身構えていたものの声がかからなかった主人公が、その代わりに心裏で、料亭でやとわれ女将(おかみ)をしている妻がいったいどんな女なのかを掴(つか)みかねている動揺を包み隠さず語っていく。主人公の独特の観察眼によって捉えられた女性の艶姿(あですがた)が、水際だった描写で色濃く立ち上がり、パッションが受難とも情熱ともなる機微と、人生の徒労感が描き抜かれている。
 東京の下町生まれである著者の土地勘が活(い)かされた「仮の宿」では、子規、一葉の文学が、現代にも通底している精神を探る。ラストには落語にも似た飄逸(ひょういつ)味を覚えた。生活臭、体臭を含む多彩な匂いの表現に満ちている本書を、無臭に憧れるという今の若者はどう感じるだろうか。
     ◇
 ふるや・けんぞう 36年生まれ。慶応大名誉教授(仏文学)。「三田文学」元編集長。『永井荷風 冬との出会い』。

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