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新しい小説のために [著]佐々木敦

[評者]サンキュータツオ(お笑い芸人、日本語学者)

[掲載]2018年01月07日

[ジャンル]文芸 人文

表紙画像

■「私」とは、書き手の闘いを俯瞰

 文芸批評を読むということはなにか。
 私のような不真面目な人間にとって文芸批評は、サッカー観戦のあとのサッカー解説や分析に近い。試合は見ている、けれどなにが起こっているのか、これは善戦なのか凡戦なのか。そんなときに、専門家一人ひとりの解釈の違うサッカー解説は非常に面白い。セルジオ越後が辛口批評をしているかと思えば松木安太郎は感情論を前景化し、データだけで論評する専門家もいる。そこに「サッカー観」が出る。批評とは「〇〇観」が出る哲学である点で、単なる感想や批判とは違う。
 すべての小説に目を通しているわけではないのに文芸批評が面白く読めるのは、まさに批評そのものがもつ文芸観、歴史観が傾聴に値するからであり、場合によってはそれが後の小説のあり方を方向づける契機になるからである。
 私は、タイトルの元ネタでもあるアラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために』を翻訳した平岡篤頼先生の教え子だ。サッカー観戦における最大の関心事が勝つかどうかにあるように、小説における最大の関心事は、あらすじがおもしろいかどうか、そしてそれが巧妙で自然かといったところにある。しかしロブ=グリエはアンチロマンを掲げこれに徹底的に抵抗した。平岡先生も常に闘っていた。日本には「私」が主格の日記文学や漱石、芥川の諸作品に、アンチロマン(非あらすじ的な文芸)が存在していたと力説していた。
 著者は、ロブ=グリエの説を紹介しながら、非あらすじ的な文芸のなかでも、小説における「私」の問題を取り上げ、綿矢りさ以降の「闘い」を俯瞰(ふかん)する。「私」は、「私」に置き換え可能な三人称でもあり、また架空の「私」でもあり、書き手本人の場合がある以上、「私」の問題は小説全体の問題である。
 最高の理屈家の言葉を聞くような心地良い読後感!
    ◇
 ささき・あつし 64年生まれ。批評家。著書に『批評時空間』『ニッポンの文学』『筒井康隆入門』ほか。

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