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ヌヌ 完璧なベビーシッター [著]レイラ・スリマニ

[評者]諸田玲子 (作家)

[掲載]2018年05月12日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■善とも悪ともつかない人の心

 切り裂きジャックはいつの時代にもいたかもしれないが、快楽殺人のように常軌を逸した殺人鬼がミステリーに登場するようになったのは、ハンニバルの衝撃『羊たちの沈黙』が出た1980年代後半からではないか。若い頃、海外ミステリーに熱中していた私は、このころからついてゆけなくなった。これでもかと残虐さを見せつけて恐怖をあおりはするが、犯罪に至る心理や葛藤が置き去りにされている気がしたからだ。
 「赤ん坊は死んだ」で始まる本書も最初の数ページで本を閉じたくなった。あまりに凄惨(せいさん)な犯行現場、しかも犯人はわかっている。
 閉じなくてよかった。
 重く深く切ない上質のサスペンスとまた出会えた。カトリーヌ・アルレーを想(おも)わせる仏女性作家ならではのきめ細かな心理描写は、加害者と被害者の双方を公平な目で見つめ、私たち誰もが抱く善とも悪ともつかない微妙な心の揺れを巧みに炙(あぶ)り出してみせる。
 「ヌヌ」とはベビーシッターのこと。か細くて優しい完璧なヌヌのルイーズは天涯孤独、貧困にあえぎ、この世の不幸を一身に背負っているような女だ。片や雇い主の若夫婦は、音響アシスタントと弁護士として多忙の身、うしろめたさを覚えながらも家事や育児をヌヌに任せきっている。
 思いやりや気づかいはあっても、ヌヌと雇い主の間には決して越えられない格差の壁がある。人の善意は必ずしも善とはならない。至福の思い出が裏目に出ることもある。そもそもヌヌが第二の母親でいられるのは子供たちが幼いときだけで、無用になれば捨てられてしまう。無知と誤解から生まれる不安は次第にヌヌの心を蝕(むしば)んでゆく。
 ヌヌたちの大半はアフリカ人やアジア人。集いの場は公園である。移民に頼る欧米諸国の社会の歪(ゆが)みは根が深い。いや、ヌヌの悲劇はひとごとではないはずだ。人と人、国や民族が理解し合うのはなんてむずかしいのかと、ため息が出た。
    ◇
 Leila Slimani 81年、モロッコ生まれ。パリに移住後、作家に。2016年に本作でゴンクール賞を受賞。

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