
[掲載]2010年1月9日朝刊be
■じつはナンセンスなカフカ
チェコのプラハで労働者傷害保険協会の有能な官吏だったカフカが常ひごろ夢想していたのは、あらゆる俗事と好きなだけ没交渉のままでいられる孤独な地下室だった。
ランプが一つだけともされ決まった時刻に質素な食事が届けられるその部屋で、時間を忘れて納得がいくまで小説を書いていたかったのだ。
母性をくすぐるタイプで、女性にはもてまくった彼が終生、結婚には優柔不断だったのは、それが孤独の至福と敵対するものだったからだ。
丘沢静也さんによって新たに訳し直されたこの未完の小説は、1940年の本邦初訳から、ずっと『審判』と題されてきた。それゆえ、神がかった終末観につきまとわれた、深遠で神秘な悲劇として読まれてきた。しかし、もっとも草稿に忠実に翻訳された新訳は、ナンセンスな喜劇の様相すら帯びている。
カフカはこの小説を書き始める直前、恋人との結婚に踏ん切りがつかず、ついに婚約を解消する羽目になった。
そんな煮え切らない男の葛藤(かっとう)が、不条理劇の下敷きになっているように思える新訳だと、主人公が犬死にする結末にすら腹をかかえて笑えてしまえそうだ。(保科龍朗)
■もっとはまりたい人へ 書店員のおすすめ
リブロ池袋本店(マネジャー) 矢部潤子さん
〈1〉不思議の国のアリス [著]ルイス・キャロル
〈2〉おぞましい二人 [著]エドワード・ゴーリー
青山ブックセンター六本木店(文芸担当) 間室道子さん
〈3〉雪だるまの雪子ちゃん [著]江國香織
〈4〉掏摸(すり) [著]中村文則
〈5〉火を熾(おこ)す [著]ジャック・ロンドン
カフカの母国、チェコの現代の知識人たちは、不条理だったり不可解だったりする状況に遭遇すると「カフカールナ!」とうめきながら嘆くそうである。
日本語にあえて訳せば、「なんてカフカなんだ!」とつぶやきたくなる物語を、矢部さんと間室さんに選んでもらった。
〈1〉はもはや説明するまでもないルイス・キャロルの児童文学の古典。夢魔に忍びこまれたかのようにアリスが体験する数々の災難はたしかにカフカ的といえなくもない。「どこに連れていかれるかわからない感覚が相通じる」と矢部さんはいう。
〈2〉は米国の作家、ゴーリーの怪異な絵本だ。男女のカップルが5人もの子どもを殺して荒野に埋めた現実の事件をモチーフにした。「訳者の柴田元幸さんの人気で売れている。あっさりしたデビッド・リンチの映画のような味わい」(矢部さん)
「野生の雪だるまの女の子」が登場するというだけで不条理な〈3〉は、その主人公が人間界で暮らす物語。「『知らない世界で女の子がたったひとり雄々しく生きる』が江國作品に共通のテーマ。奮闘する雪子ちゃんが愛らしい」(間室さん)
「私が読んだ本の中で究極の部類の『悪』が登場する」と間室さんがいう〈4〉は、若き天才スリ師が、他人を見下しながらその人生をもてあそぶ男に目を付けられて最悪の窮地に陥る。
『野性の呼び声』で知られる米国の作家、ロンドンの短編集の〈5〉は、極寒のアラスカを舞台に絶望的な孤独を描いた表題作をはじめ、敗者となる男たちの物語ばかりだ。「運命のむごさに泣いても、泣き言はいわない。ハードボイルドな味わいにシビレます」(間室さん)
著者:フランツ カフカ
出版社:光文社 価格:¥ 800
著者:ルイス・キャロル
出版社:集英社 価格:¥ 999
著者:エドワード・ゴーリー
出版社:河出書房新社 価格:¥ 1,050
著者:江國 香織・山本 容子
出版社:偕成社 価格:¥ 1,575
著者:中村 文則
出版社:河出書房新社 価格:¥ 1,365
著者:ジャック・ロンドン
出版社:スイッチ・パブリッシング 価格:¥ 2,205