現場の思考こそ指針 鷲田・フィールド対談(1)2005年の新・教養主義
■ニ文法で動く時代に 鷲田氏■
■孤立感生む単純社会 フィールド氏■
鷲田 社会や国が成熟するとはどういうことか、だんだんわからなくなってきた。近代は、人々の「知」をひらくことで、人間や社会の成熟を目指してきたけれど、この間の政治や経済、環境を考えた時、私たちは果たして成熟へ近づきつつあるのか、悲観的になってしまう。逆に、いろんな力を失ってきたという能力喪失ばかりが目につく。
振り返れば阪神大震災の時、生きる上での基本的な力をなくしていると思った。子どもの教育やお年寄りの介護を担う地域の力も弱くなった。そして今度は郵政民営化に賛成か反対かという、非常に単純化された命題に反応して物事を決めている。どう動かないと民主主義は維持できないかがわかって、力を蓄えてきたのかと思ったら、逆に思考停止で……。暗い話からすいません(笑い)。
フィールド 私はアメリカを見て、それを追っかけている日本に来ているので、悲観というか絶望から始まっています。
この1年間、16年ぶりに日本で暮らしたわけです。例えばお年寄りの介護でみると、アメリカは完全に分裂している。いわゆる知識階級や中産階級の中から上は施設に預け、ハリケーン・カトリーナで世界にばれてしまったあのアメリカは、すべて家庭の中で介護する。その中間はあまりない。
日本でバブルがはじけたと言われても、なかなか目にはそう映らなかった。ただ、お金がないことが常識とされて、予算を削減するとか、自己責任でやらなきゃならないとか、バブル崩壊はそれを納得させる装置だったのかと思います。
イラクの人質問題から、「自己責任」「自己負担」という言葉がはやりましたよね。近代の理想である自立、自己決定を巧妙に使って、ゆがめた「自己」を押しつけているんじゃないか。というのも、個人が成り立つには社会や集団がなければならないけれど、集団のイメージが、かなり前から魅力を失っていた。例えば労働組合は腐敗か抑圧の装置で、無用だという意識もできた。それが孤立感を生み、職を失っても助けてくれる人はいない。
鷲田 悲しいのは、若い人が自分たちの行動を正当化する論理が親の論理のコピーであること。「私のものをどうしようと勝手。迷惑かけなければいいんでしょ」と。もっと別の形で表現する論理を探さないのかなあ、と思う。
もう一つは、同じものを共有する集団の中に自分を溶かし込んで、細やかなコミュニケーションをしていることで、かえってコミュニケーション圏の孤立みたいなものが起きている。
フィールド 若い人だけの問題ではないんじゃないか。グループに入れるか入れないかとか、いじめと傷つきやすさが極端です。
それから、終身雇用がなくなり、職を変えることがよしとされるようになったが、実はそれを強要される人が多い。近代社会では、機械が人間の働く場を奪ったけれど、最近のフリーター社会では機械の代わりに人が使われている。人間の技能や心身の機能も、単純化した方が操作しやすい。そんな要素があって、あの選挙もあったんでしょう。
鷲田 論理も単純化しています。例えば医療を受ける時の自己責任、自己決定とは、命は自分のものだから患者が決定していくべきだという論理。本来、すっきり割り切れないものをため込んで考える姿勢がなくなり、わかりやすい二分法で動いている。
フィールド どういうところで人間はお互い依存すべきかも考えたいですね。例えば医療のセカンドオピニオン。患者が求めるのは当然ですが、あれはアメリカの訴訟社会が作り出したものです。友人の弁護士が病気になった時、訴訟を恐れて医者が極端に何も教えてくれない。専門家の知識と知恵に頼りたいのに。
少し違う話ですが、戦後日本でうらやましかったのは、公教育や医療の水準が高く、誰でも受けられたこと。また、日本の占領政策には、アメリカで全うできなかったニューディールの理想を日本で、と考えたアメリカ人もかかわった。逆コースやレッドパージでつぶされたけれど、軍隊に入って人を殺さないでも高等教育が受けられるという、アメリカとは違った社会を築くことができた。
ところが、あれだけ悲惨な敗戦があり、戦前戦中の価値観を問い返したはずなのに、それを簡単に手放していった。切ないというより、信じがたい感じです。このまま憲法9条も手放してしまうのだろうか。
鷲田 事態をより正確に見るためにいったん退却するタメの部分がなくなって、ポーンと反応している。
フィールド 今回私たちが挙げた本の著者や読者は多分そうではない。でも、この人たちの交わす言葉は、外には一切届いてないんじゃないか。
鷲田 うーん……。
■関心の断絶 気がかり―フィールド氏■
■市民の成熟促したい―鷲田氏■
フィールド 私はこの1年、久しぶりに大学の世界とはあまり接触がない生活をした。ものを考え、行動する人たちに出会えたのですが、そういう人たちにさえ、中央の文化人の言葉はあまり届かないし、説得力が希薄に思えます。
鷲田 僕はそこはちょっと違って、今回挙げられた本はいわゆる売れ筋ではないですよね。思想というものは、読んだ人が思いを結晶化して形を与えていろんな発信をする時、読者の数では測れない力を持つ場合があると思う。言葉は、それで自分の身を立てる支柱になり得るのだという、その希望は捨てられない。
フィールド 音楽や映画、本にも夢中だけど、情勢の危うさに全く気付いていない層がある。本も新聞も読まない層もある。大政翼賛化を前に、この断絶こそが気がかりなのです。
鷲田 ノーマさんのご主張はよくわかるんです。ただ、市民って一体誰だろう。例えば小林傳司さんは日本で最初に「コンセンサス会議」を開いた方です。原子力や遺伝子治療の是非、遺伝子作物の安全性など市民は全然わからないけれども、日常生活に深くかかわっている。
科学者が市民に、直接話し合う会議に出ませんかと募集して20人ほどのパネルをつくる。行政関係者も呼んで、ある質問をして、答えをもらったら、また話し合う。市民が、科学技術に関する政策提起ができるところまで成熟することを目指している。
批判する人は、これは選ばれた市民で、代表じゃないという。でも、あらゆる人の意見を聞くことが本当に世論や市民の声なのか。これはそういう関心を持つ市民を増やす運動だと、僕は評価してるんです。
今回挙げられた本を読まない無数の人たちがいるのは確かですが、こういう本がなかったら、関心のある市民、自分からコミットしていく市民が育たない。
フィールド 全くそうですが、やっぱりこのサークルを突破したい。突破する責任はとりあえず知識人の方にある。市民を育成する場は必要だけど、今の日本は、そういう場に到達する経済的基盤が崩れかけ、そこから外れていく人たちが増えている。彼らを市民としてどう回復できるのか。
鷲田 僕らがやっている「臨床哲学」や「哲学カフェ」は、哲学の知識を使わない。十数人で、何について話すかを決める。偉い思想家の考えを繰り返さない。具体的な経験を引くことから始める。人の話は最後まで聞く。手を挙げて、指名されてから話す。ルールはこれだけです。
で、時には2、3日やる場合もありますが、司会者は誘導せずに交通整理をする。こちらから出前で押しかけて行って、高校でもやっているんです。よき社会はどういうものか、人々はどう生きたらいいのか、他人を理解するとはどういうことかとか、基本的なことを日常の言葉を再定義して厳密に使い直すことで、ロジックを発見していく。
フィールド 民主主義にとってもすごく重要なプロセスですね。市民、司会者として参加されている鷲田さんは同時に哲学者でもあり、そういう場に参加することで哲学も変わってくる。市民のいるところに出向いていく哲学、さらされる哲学、試される哲学ですね。言葉が発せなくなった市民も、目の合図で哲学に参加する。ここに、行動を生み出す場としての哲学が感じられる。
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