「愛と観察」希望育む 鷲田・フィールド対談(2)2005年の新・教養主義
■行動力伴った知識を―フィールド氏■
■本の声聞く詩人の心―鷲田氏■
鷲田 僕は今回、批判的思考というか思考のタメを作る力、ヒントを与えてくれる本を選びました。科学技術、精神障害、住宅、コミュニケーション。みんなにかかわるテーマです。
一番求められるのは、わからない問題にわからないままどう対処するかという作法です。例えば外交なら相手が何を考えどう出るかわからずに、いろいろなことを想定して手を打つ。構造改革や不況対策で取らねばならない施策はいくつかあるが、正解が見えないまま即座に決断していく。
介護の現場でも、看護師さんやケアマネジャーに求められるのは、正解の見えない現場の思考法です。本当の意味での教養と言えるとしたら、そういうものなんじゃないか。それは大事業や演説でするものじゃなくて、手仕事をただ積み重ねるしか仕方ないことかもしれないんですけれども。
フィールド 共感できます。でもそれで間に合うんだろうか、とも思います。イラク戦争阻止、米軍の撤退に向けて、考えることとしゃべることしかやってこなかったアメリカ人として気になるのです。今おっしゃった個々の細かい手仕事的な作業と同時に、巨大メディアが作り出す意識、格差と戦争が常識化されていく状況にどう立ち向かうか。
鷲田 本というのは「個々の細かい作業」じゃないでしょう。不特定多数に開かれていますから。
フィールド そうですね。ただ読者層は圧倒的に少なくなっている。我々はどんな責任があるのか。本を広めるだけでいいのか。
私が否定的に思うのは、80年代、90年代にアメリカの良心的知識人、研究者がつくり出したものは、結局、研究で終わっている。そして根底から物事を考えるようなものは、一切支援されなくなりつつある。
大学でいうと、専門教育に入る前の学部の教育が重要だと思う。世界との行き来を考えること。教育の場で与えられた本や考えが自分のものになるには、社会的な場面で試されて、知識の形も変わっていくことが必要でしょう。教育も手仕事ですね。その結果として行動力が備わって欲しい。
鷲田 哲学科にいても一冊も哲学の本を読んだことがない学生もいる。でも一冊読み切る、何か震えてしまうという経験をしていないだけで、一回すると案外読むと思う。僕はいつも学生に解説書を読まんと元の本を読みなさいと言う。ワンフレーズに触れただけでビビッと来る場合がある。
大学の研究者はつねに客観的な立場から書いているような顔をしますが、今回選んだ本の著者たちは、自分がどこから語っているかにものすごく敏感です。フェミニズムや民族、戦争の問題にしても、どこからしゃべっているかで意味がゴロッと変わりますよね。
それと、自分を支えてきた思考の枠組みが壊され、混乱に陥るような本を選んだ。メルロ・ポンティの言い方なら自分の端緒、コマンスマンを更新する経験。
フィールド もしかすると、私は意外と古典的な教養主義者で、問題はどうしたらこういう本が多くの人に読まれるか、ということかもしれない。
鷲田 本を選ぶ時はメッセージだけに反応するんじゃないでしょう。書き物はテキストだけど同時にテクスチャー、文章や言葉のきめがある。思想にひかれることも、自分と違う文体、言葉の感触をたたえているものに衝撃を受けるのも読書経験だと思う。
実をいうと、哲学書は最初は一割もわからない。『パンセ』やニーチェは、今でも半分わかるかなという程度。でも丸暗記したくなる文章がある。言葉の感触が自分を奮い立たせてくれたり、慰めてくれたりする。本にも声がある。それを聞くのは詩人の心です。
フィールド そうですね。でも自責の念があるんです。今バグダッドに暮らしていたら、この対談もできない。絶望という言葉を、使う権利がないのに使っちゃっているんです。こんな時に、本を大事にする我々が模索すべきことって何なんだろう。
■絶望から理解始まる―鷲田氏■
■自分の読みに自信を―フィールド氏■
フィールド イラクの自衛隊派兵違憲訴訟をしている女性の法律家が、どこに希望を見いだせるのって言うんです。考えた末、基本的には人間に対する愛着だろうと思った。愛着がある限り何か模索するし、効果が見いだせなくても努力を続け、道が開かれるかもしれない。私が選んだ本にはそれぞれ違った形で人間に対する愛着があると思う。
愛することが理想化を防ぐ、と英国の批評家ジョン・バージャーが言っているんです。この人々を愛しているから美化すまいという心構えで観察し続ける。愛と観察にコミットすることが大切です。今後、戦争反対を弾圧する社会になっていく可能性があるけれど、希望を捨てないというのはそういう暗い時期をもくぐり抜けていく用意かな。そして、愛着の対象を身近な人から広げる想像力。小学校や幼稚園を視野に入れ、具体的な努力をすること。
鷲田 やっと希望が出てきた(笑い)。
フィールド 教育の現場が変わらないと。井尻正二という小樽出身でナウマン象の発掘者は、弁証法の勉強を保母さんや保護者とやってたんですね。
鷲田 うちの院生で傑作なのは、ニュータウンへ行って、公園デビューとかしているようなヤンママを集めて月1回、哲学カフェをやっているんです。
僕が哲学カフェをやっててうれしかったのは、80歳から高校生まで老若男女が参加した時、ある人が言った言葉。「私長いこと生きてるけど、こんなに年も性も違う人たちといきなり、他人を理解するとはどういうことかをストレートにしゃべったのは初めてや」。
フィールド 私もそういう場にいたい。
鷲田 その場を成り立たせるには本を読んでいないと。こう考えたらこうなるという思考の筋道をきちんと示している本。そして、学問の外で起こっていることを当事者の声のまま丹念に記述している本。その両方です。一つの問題にこんな窓口や思考の回路があると知っていると、交通整理にも少しは余裕が出る。
フィールド 専門家の市民としての責任ですよね。可能な思考を出してくれる。そういう作業にとって本は欠かせない。
鷲田 キャッチャーミットを持つようなものです。もう一つの希望は、さっきのルール、簡単でしょう。他人の話を聞いて自分の話をコンパクトに話す。
フィールド それは秋田の大館で聞いた話に似ている。小林多喜二を読みながら冬を越す、という年配のグループです。誰々がこう言っていると言うと白けることがわかった。権威を排してみんなが自分の好奇心で発言し、自分の読みにも自信を持ち、ほかの人の読みにも関心を持つ。盛り上がっているんですって。
鷲田 自分を開いていくんですね。今の日本語は、「改革」も「民営化」も、世界を閉じる方にばかり働いている。
哲学カフェでは参加者が職業も言わないから後でわかったんですが、そこにいた元裁判官が言ったのは、調停では、この人とはもう話すことがない、絶対わかり合えない、と両者が絶望した時から理解は始まる。解決策はないと断念したところからしか、相手はどういう思いなのかっていう想像力は出てこないと。
フィールド 今日、友人からのメールが、私たちの昔からの相違点にふれていたので削除したんです。返事をすまいと。でも、千歳からの飛行機でずっと考えてた。希望なんて持てないと言った時、希望が首をもたげる。それを生かせるかどうかは意思の問題です。
|