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特集

「カラマーゾフ万歳!」の心、世界へ 亀山郁夫さん

[掲載]2007年10月26日朝刊

秋の読書特集 第1特集 翻訳新世紀―新訳で文豪を楽しむ

 世界文学の最高峰と目されるドストエフスキー最後の作品『カラマーゾフの兄弟』――。物語は、ロシアのとある田舎町を舞台に、カラマーゾフ家の主人フョードルを殺した犯人はだれか、の謎ときを中心に展開する。原稿用紙に換算しておよそ3000枚の超大作、生半可な覚悟ではとうてい読み通せない難解小説というのがこれまでの定説だった。

写真かめやま・いくお 49年生まれ。東京外国語大学長。ロシア文学。『磔のロシア』で大佛次郎賞。ほかに『ドストエフスキー 父殺しの文学』『「悪霊」神になりたかった男』など。

 厳密な言い方をすれば、作家は、人間の心のあらゆるレベルにおける「父殺し」の意味を問い、直接の下手人をけっして真犯人と名指しすることはない。そこが並のミステリーと違うところで、真の「事件」は、まさに主人公たちの魂の世界で起こる。

 しかし、めくるめく混沌(こんとん)に覆われたこの小説も、いよいよ終わりが近づくにつれ、例えようもない浄化力をはらむ。「カラマーゾフ万歳!」を叫ぶ少年たちの明るい声がひびく最終頁(ページ)まで来たとき、私は、まるで魂を鷲(わし)づかみされるような強烈な充足感につらぬかれた。それは、文字通り、宇宙との一体感というべき体験だった。

 けれど、翻訳者として、そこにいたる道のりは苦しく険しかった。心の圧倒的な高揚感とうらはらに、体は、もはや限界、と呻(うめ)くしかないほど消耗しきっていたのだ。そうして、登頂の喜びにろくにひたる間もなく、私は下山を開始した。しかし、余熱、そして勢いというのは恐ろしいもので、途中、興味がてらに、麓(ふもと)近くに聳(そび)えたつもうひとつの山の登頂を試みることになった。それが「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」と題する小さな本になった。

 『カラマーゾフの兄弟』「前編」を書き終えた作家は、1880年11月、万感の思いをこめて書いている。「執筆に3年、発表に2年!」。作家は、この手紙からわずか3カ月後にこの世を去るが、本来ならば、2年の休息を経て取りかかるはずの「続編」に着手できない無念さは、いかばかりのものだったろうか。

 ドストエフスキーがこの小説の執筆に入るのとほぼ同じ年齢で翻訳をはじめた私も、ここで僭越(せんえつ)ながら、文豪の口真似(くちまね)をさせていただく。「翻訳に1年半、刊行に1年!」。時間的には約半分だが、今も続く疲労感から推して、この仕事に注いだエネルギーは、原作者のそれとさして変わらなかったのではないか、とさえ、思う。

 では、何をそこまでこだわったのか。

 私は、そう、最後まで一気に読みとおせる『カラマーゾフの兄弟』を、の信条に徹底してしたがった。読み通せなければ、どうしようもない、という、ある意味の現実主義。自分でこしらえたコピーを呪文のように唱えつづける毎日が続く。「リズムと勢いのなかで、すっと世界に入り込める」「音楽として体感でき、読書が読書でなくなる」。思えば、ずいぶんと欲張りな『カラ兄(きょう)』ではないか。

 しかし、だれよりも深く世界にのめり込んだのは、当の翻訳者であったろう、と自嘲(じちょう)的に思う。その証拠に、この2年間、「父殺し」という、恐ろしくも現代的なテーマ性をはらんだこの小説が、他方で、どれほど深く、美しく、謎に満ちているか、を、可能な限り、熱に浮かされたように語り続けてきた。そして、語りながら、いつも瞼(まぶた)に浮かべていた。日本のどこかで、切れ目なく、時には昼時のカフェで、時には夜の居酒屋で、「ねえ、ねえ」と、熱っぽく小説を語りつづける若いカップルたちの姿を。

 ウェブでの読者の反応を見ると、どうやら、その夢は叶(かな)いつつあるらしい。しかしいま、私の夢はさらに贅沢(ぜいたく)に膨らみつつある。「カラマーゾフ万歳!」の心を、日本から世界へ伝えたい。まずはお隣の韓国へ、さらに中国へ、あるいは太平洋を超えて。それができれば、この荒(すさ)みきった地球にも、きっと調和と喜びがいち早く実現しそうな気がするのだ。

    ◇

 『カラマーゾフの兄弟』 光文社古典新訳文庫、全5巻(1巻760円、2巻820円、3巻880円、4巻1080円、5巻660円)。しおりに主な登場人物の一覧がつく。エピローグは第5巻に独立させた。過去の主な邦訳は、岩波文庫の米川正夫訳(全4巻)、新潮文庫の原卓也訳(全3巻)など。

 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」 亀山郁夫著、光文社新書。819円。未完に終わった『カラマーゾフの兄弟』の「第二の小説」を詳細なプロットと仮説から空想する。

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