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特集

『白鯨』メルヴィル 原文に忠実、表現力も富む 巽孝之さん

[掲載]2007年10月26日朝刊

秋の読書特集 第1特集 翻訳新世紀―新訳で文豪を楽しむ

 いまや世界的な文豪と目される19世紀アメリカ作家ハーマン・メルヴィル(1819〜91年)には、さまざまな顔がある。自らの航海体験を生かした初期の海洋冒険小説『タイピー』から、ニューヨークを舞台にした実存主義文学の走り「代書人バートルビー」、キリスト教文明の根幹へ挑戦を突きつけた後期の『詐欺師』や未完の『ビリー・バッド』まで、その作風は多彩で幅広い。にもかかわらず、我が国でメルヴィルといったら、やはり代表長編『白鯨』(1851年)の印象が先立つ。何しろ、翻訳された回数だけ数えても、この作品だけが圧倒的で、11種類にものぼるのだ。その歴史は、1941年に翻訳され、56年以降は岩波文庫に入り定訳の評価を得る阿部知二訳に始まり、いちばん広く親しまれたであろう新潮文庫の田中西二郎訳、そして最新の岩波文庫の八木敏雄訳へと至る。

写真たつみ・たかゆき 55年生まれ。慶応大教授。米国で出版された日米比較文化論『Full Metal Apache』や『ニュー・アメリカニズム』など。

 『白鯨』は、19世紀半ば、アメリカ捕鯨産業が極東の基地を求めてそのネットワークを拡張していた時代、我が国が黒船により開国を迫られる前夜の時代に、かつて片脚を白鯨「モビィ・ディック」にもがれたエイハブ船長が、捕鯨船ピークォド号の船員全員を自らの捕鯨の旅ならぬ復讐(ふくしゅう)の旅にまきこみ、その巨獣と再会するも、惨敗を喫する物語である。メルヴィルの文体は必ずしも読みやすくはないし文法破格も少なくなく、しかも『白鯨』には、いま要約したようなあらすじにはおさまりきらない戯曲風の章や哲学的思索の章などが詰め込まれ、形式面でも複雑怪奇だ。ところが、いったん読み始めたら、必ずしも明快ではない物語の空白部分からさえ熱く煮えたぎるような魂が伝わってくるのも、この作家の神髄なのである。だからこそ、メルヴィルの翻訳者は、まさにそのような作家的魂に身を預けて自らの想像力により空白を埋めるか、それともあくまで日本語として対応するよう自己抑制するか、いずれかを迫られる。

 たとえば、全135章におよぶこの小説の第1章は、語り手のこんな自己紹介から始まる――“Call me Ishmael.” 文法的にはいっさい曖昧(あいまい)なところのない、中学英語でもわかる一文。しかし、驚くなかれ、この一文だけでも論文が数多く書かれているほどに謎が多い。こころみに、田中西二郎訳を参照してみれば、こうなっている――「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ」。語り手の名が聖書においてイスラエル人の祖アブラハムが奴隷女ハガルに産ませながら放浪を余儀なくされる長男イシュマエル、すなわち名門からの落ちこぼれの名前を意識した「みなしご」の意を含むとあれば、いささか時代劇がかった文体とはいえ、作家的魂を汲(く)み取り空白を埋めるタイプの訳文といえるだろう。

 これが最新の八木敏雄訳(岩波文庫、2004年)ではこうだ――「わたしを『イシュメール』と呼んでもらおう」。田中訳とは正反対の、たんなる直訳に思われるかもしれない。だが、訳者はその英語版がアメリカ人学者にも影響を与えた洞察あふれるメルヴィル論『「白鯨」解体』(研究社、1986年)の著者でもあり、この第一文ではイシュメールというのが本名かどうかわからぬ「とりあえずの呼び名」であることが強調されるべきだという視点をもつ。めぐりめぐって、原文に近いシンプルな訳文が選ばれたゆえんだ。折しも『白鯨』出版150周年を記念して刊行されたノートン版第2版は、注釈や批評に多くの新見解を含み、八木訳にもそうした成果が訳文および注釈にフル活用されている。エイハブ船長に刃向かう1等航海士スターバックの名が今日のスターバックスコーヒーといかにかかわるかについても、ぬかりはない。この最新訳は、原文に最も忠実であるとともに最も表現力に富む、稀有(けう)のテキストといえるだろう。

    ◇

 八木敏雄訳、岩波文庫上中下・各945円。阿部知二から数え11番目の『白鯨』翻訳者。ほかに田中西二郎訳(新潮文庫)や千石英世訳(講談社文芸文庫)などがある。

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