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ここから本文エリア 特集 『変身』カフカ 「オリジナル」に迫る試み 奥泉光さん[掲載]2007年10月26日朝刊 カフカの『変身』をはじめて読んだのは高校一年生のときで、新潮文庫の高橋義孝訳だったと思う。その後、幾度も読む機会があって、考えてみると、自分が最も多くの回数読んだ海外小説は『変身』かもしれない。さほど長くないこともあるが(『失われた時を求めて』を何度も読むのは大変だ)、やはり読むたびに新鮮で面白いからだろう。
翻訳も複数あって、最近も06年に池内紀氏の翻訳が「白水uブックス」から、07年に丘沢静也氏のものが「光文社古典新訳文庫」から出て、いまや日本語版『変身』は、多数の、といってよいほどの複数バージョンが存在するわけで、考えてみるとこれはなかなかすごいことである。 本として出す以上は読者に配慮するのは当然であり、どのバージョンも工夫が凝らされているが、ことに白水社版は、底本ではパラグラフに埋もれている会話部分をすべて改行するなど、「日本語の小説」としての読みやすさを強く意識している。 これに対しては、光文社版の「訳者あとがき」のなかで、丘沢静也氏が批判を加えているのが興味深い。翻訳を演奏に類比させた丘沢氏は、西洋古典音楽の世界でいう「ピリオド奏法」――作品が書かれた時代の流儀で演奏しようとする――を引き合いに出し、演奏家(翻訳家)の慣れ親しんだ流儀ではなくて、「オリジナルに忠実」であることが、親しみやすさを犠牲にしても、魅力的な演奏(翻訳)を引き出すのだと主張する。 丘沢氏自身もいうように、「では、オリジナルに忠実な翻訳とはどういうものか」の難問は残るものの、読みやすさへの配慮が原作の持つ力を失わせる危険の指摘には耳を傾けるべきだろう。翻訳とは、外国語の異質なシステムにある言葉を日本語に移しかえるという、元来無理な作業をする過程で、日本語そのものを批評し、また日本語による表現の可能性を押し広げていく営みでもある。事実、日本語はそうやって鍛えられてきた。異質な言葉や思想の異質性が、親しみやすさと引き換えに批評の牙を抜かれたのではつまらない。硬い食べ物を軟らかく煮て食べやすくすることは、食物本来の風味を損なうばかりでなく、栄養も台無しにしてしまう可能性がある。といって「生」で供すればいいともいえぬので、そのあたりに翻訳家の苦心があるわけだ。 何でもやさしいのがいい、という風潮があるけれど、翻訳は決してそうではないだろう。もっとも世の中には翻訳がいい加減なために読みにくい書物もあるから困りものだけれど、数ある日本語版『変身』はどれも訳者の苦労の跡がみてとれ、質が高い。安心して手にとってよいと思う。 ◇ 丘沢静也訳・光文社古典新訳文庫・440円。1952年の高橋義孝訳(新潮文庫)以来、山下肇・山下萬里訳(岩波文庫)、中井正文訳(角川文庫)などがある。06年に池内紀訳(白水uブックス)刊行。
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