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特集

江戸時代観、ぐっと拡がる 田中優子さん

[掲載]2007年10月26日朝刊

秋の読書特集 第2特集 時を超え、あの時代に―歴史・時代小説

 隆慶一郎の『吉原御免状』は江戸時代の再評価が始まった1986年に出た作品で、当時はここまで遊廓(ゆうかく)と遊女を正確で具体的に描いたものはなかった。主人公の誠一郎が吉原に入ってゆくと、まばゆいばかりの光と、100挺(ちょう)を超える三味線の「すががき」に包まれるくだりが忘れられない。ひとりひとりの遊女の描きかたも見事だ。吉原という別天地がどのように演出されていたか余すところなく書ききっていて、これを越えるものはいまだにない。

写真たなか・ゆうこ 法政大教授 52年生まれ。近世アジアの視野から江戸文化の豊かな諸相を浮き彫りにした江戸学を開拓。著書に『江戸の想像力』『江戸百夢』など。

 誠一郎は吉原を作った庄司甚右衛門に会いにゆくのだが、その物語を通して、吉原の成り立ちが漂流民である傀儡子(くぐつ)の一族に由来することがわかってくる。江戸時代が多くの権力集団の駆け引きの中で成り立ったのは事実である。その集団の中に、漂流民を組み入れたことが白眉(はくび)であった。江戸時代観はこの作品でぐっと拡(ひろ)がった。

 江戸時代への視野がさらに拡がる歴史・時代小説と言えば、平戸・長崎を囲む国際情勢を素材にした白石一郎『怒濤(どとう)のごとく』がおすすめだ。『パイレーツ・オブ・チャイナシー』とでもいう映画になぜならないか?と不思議に思うほど海の上の見事な歴史アクションであった。

 私は横浜で港を見ながら、華僑をはじめとするさまざまな異国や混血の子どもたちと小学校時代を過ごした。それは私の江戸学に色濃く反映され、多国籍倭寇(わこう)や鄭成功の海の上の物語にはめっぽう弱い。鄭成功の史実は素晴らしい物語ソースなのだが、本書以前にヒットしたのは近松門左衛門の『国性爺合戦』のみである。もったいない。鄭成功礼讃(らいさん)の小説ではなく、日本中国どちらにも自分を置けない彼の矛盾を、その王国失墜の根拠としたところがいい。

 江戸の裏世界も面白い。藤沢周平に『一茶』という作品がある。15歳で江戸に出た一茶が就職先を転々とし、博奕(ばくち)にひとしい雑俳をやっていた、という想定で書かれている。継母にいじめられ、長男であるにもかかわらず村を出された一茶が生きてゆくためには、なるほどそういう生き方が現実的だ。

 俳諧師になってからも、一茶はパトロンたちへの挨拶(あいさつ)回り、テリトリーの確保等々、生々しい現実のなかで生きてゆく。旦那(だんな)衆たちに頭を下げる遊行芸人の旅、いわばどさまわりである。3回の結婚も性欲とともに描き、遊女買いの場面もある。男性としての体臭を感じる俳諧師一茶だ。

 最後は継母や弟と熾烈(しれつ)な財産争いを繰り広げ、故郷の家に居座る。一茶の、なんとしても生き抜こうとするこのしたたかさは、当時の庶民の現実の姿である。私が藤沢周平の作品が好きなのは、歴史上の人物を決して美化せず、ひとりの人間としてとことん見つめようとするからである。

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