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「昭和の鉄道記事」が凄い、おもしろい(6)

[発売]2010年11月30日

画像:昭和初期のものと思われる16枚つづり32ページの「東京―ベルリン」間切符(鉄道博物館所蔵)を完全収録拡大昭和初期のものと思われる16枚つづり32ページの「東京―ベルリン」間切符(鉄道博物館所蔵)を完全収録

写真:シベリア鉄道のアジア側始発駅、ウラジオストク(1917年撮影)拡大シベリア鉄道のアジア側始発駅、ウラジオストク(1917年撮影)

写真:欧亜連絡の一端を担った満鉄(南満州鉄道)の特急「あじあ」号。この写真は1935年、ハルビンまで運行区間が延びたときのもの拡大欧亜連絡の一端を担った満鉄(南満州鉄道)の特急「あじあ」号。この写真は1935年、ハルビンまで運行区間が延びたときのもの

写真:新京(現長春)駅。1907年に駅が設置され、のちに日本によって建国された満州国(中国東北部)の「首都」となった拡大新京(現長春)駅。1907年に駅が設置され、のちに日本によって建国された満州国(中国東北部)の「首都」となった

写真:ロシア(ソ連)との国境に最も近い中国の駅、満州里駅。日本から欧州を目指す旅行客たちはここで乗り換え、シベリア鉄道を目指していった拡大ロシア(ソ連)との国境に最も近い中国の駅、満州里駅。日本から欧州を目指す旅行客たちはここで乗り換え、シベリア鉄道を目指していった

表紙画像 出版社:朝日新聞出版 価格:¥ 1,680

AERAムック「昭和の鉄道と旅」

 東京発、パリ行き。

 戦前の一時期、そんな鉄道切符が日本国内で売り出されていたのをご存じでしょうか。

 1903(明治36)年、シベリア鉄道などによってアジアとヨーロッパが一本のレールで結ばれました。そして今からちょうど100年前の1910(明治43)年に日本国内の主要都市から外国への鉄道切符が初めて売り出され、その3年後にはパリ、ロンドンなど西欧主要都市まで1枚の切符で行けるようになりました。

 このいわゆる「欧亜連絡」の鉄道輸送ルートは第1次大戦(1914〜18)やロシア革命(1917)で一時途絶しましたが、1927(昭和2)年に復活。その後第2次大戦で再び途絶するまで、鉄道はヨーロッパへの最速交通手段として君臨しつづけました。当時、日本からは主に(1)ウラジオストク→ハバロフスク経由 (2)釜山→奉天(現瀋陽)→ハルビン経由 (3)大連→奉天→ハルビン経由 の3ルートでシベリア鉄道に至り、そこからモスクワを経てヨーロッパ各国に入っていました。モスクワからもポーランド経由やラトビア、リトアニア経由など複数のルートがありました。

 先ほど「1枚の切符」と書きましたが、実際にはこの切符は冊子状になっていました。アジアとヨーロッパを結ぶ際に経由する国や鉄道事業者ごとに1枚ずつ英語と現地語で書かれた切符があり、それがまとめて冊子になっていたのです。切符の表紙はこれまで様々な媒体で公開されてきましたが、「昭和の鐵道と旅」では特別に16枚つづり32ページの「東京―ベルリン」切符冊子内部を、切符を保有する鉄道博物館の協力のもと全ページ掲載しました。

この切符では(2)のルートを使用しており、国境を最大7回越え、日、英、仏、独、露に加えてリトアニア、ラトビア、ポーランドの合計8カ国語が登場します。当時の切符には黄色と緑の2種類があり、黄色は一等車、緑は二等車の切符でした。昭和4年当時、東京―ベルリン間の一等料金は寝台、急行料金もあわせて約440円。現在でいう100万円近くかかりました。所要日数は15日程度と船便の倍以上速かったのですが、国境を越えるたびに通関業務に時間をとられたり、沿線地域の政情不安などもあって利用客はそこまで多くはなかったようです。

「昭和の鐵道と旅」ではこの切符内部全公開のほか、沿線ルートの詳しい説明もつけています。切符に国境駅として掲載されている駅が今日では所属する国も名前も変わっていたり地図上に名前を探すのも難しい小駅となっているなど、近現代史の動きそのものがこの一冊の切符にはこめられています。

 さらに、こんな特集も。与謝野晶子、宮本百合子、林芙美子。3人の文人女性の共通点は戦前、鉄道を利用してパリまで向かったことでした。3人の足跡を追い著書『女三人のシベリア鉄道』を記した作家、森まゆみさんのインタビューもまじえ、日本→パリ間の鉄道風景を誌上再現しました。「過去」と「現在」の写真も豊富に掲載しています。

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