五月十八日、平岡篤頼が亡くなった。フランス文学者で文芸評論家、自分でも小説を書いた。
いま四十代、五十代の文学ファンにとって、平岡篤頼の名前は特別な響きがあるのではないか。平岡が翻訳したアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラス、クロード・シモンの小説を読むことは、七〇年代の若者たちにとって、とてもかっこいいことだった。どれも難解でよくわからなかったが、よくわからない文章との格闘は、たんなるファッションではなく、とても大切なことに思えた。
昨年の三月、ロブ=グリエの小説、『反復』が出た。新作である。それも、二十年ぶりの!もちろん翻訳は平岡篤頼。自分の昔のアルバムを見るような懐かしさを感じた。懐かしさなんていうとロブ=グリエと平岡に失礼なのだろうけど。でもそこには、いまどきの日本文学ではすっかりマイナーなものになってしまっている、かっこいい難解さがある。
時代は第二次世界大戦のしばらく後。場所はベルリン。そこに一人のスパイが潜入する。歌舞伎町のコスプレ風俗店みたいなサービスをする少女だとか、その母親だとか、ホテルなのか病院なのかわからない家とか、いろんなイメージがどんどん記述される。哲学者キェルケゴールのイメージも。
あいかわらずロブ=グリエの小説はわかりにくい。すごく難解だ。部分部分はわかる。でも、その部分と部分がうまくつながらない。そもそも、「私」というのが、同一の人物なのか、それとも出てくる場所によって違うのかがわからない。小説の中の「私」は常に同一で、できごとは時間の流れにそって記述される、というルールを疑ってかからないと、この小説は読めない。
平岡は多くの新人作家を育て、文芸誌「早稲田文学」を公私共に支えた。平岡が亡くなる少し前、「早稲田文学」がフリーペーパーになると発表された。これもまた、文学のルールを少しはみ出す実験かもしれない。平岡篤頼の精神は生きている。