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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>BOOK>デジタル読書トレンドWatch!> 記事 文・落合早苗 手塚治虫「マンガ記号論」をあらためて考える 『どろろ』2007年01月30日 1月27日、映像化不可能といわれていた手塚治虫氏の傑作「どろろ」がいよいよ劇場公開された。製作費20億、「どろソース」のテレビCMタイアップ、アジア・欧州・米国20カ国以上での配給も決定など話題にこと欠かない作品だ。 原作『どろろ』(手塚治虫著/秋田書店)は、父親の出世欲が元で48もの部位が欠損して生まれついた百鬼丸が、旅の途中で出会った盗人・どろろとともに魔神と闘いながら失われた身体を少しずつ取り戻していくというもの。1967年から小学館のコミック誌「週刊少年サンデー」で連載開始。一時中断されたが、フジテレビ系でアニメ放映されて秋田書店の月刊誌「冒険王」で第二部が再開、一応の完結をする。アニメ版は、戦争シーンの描写が残酷すぎる、百鬼丸の身体に関する表現に差別的内容が含まれるなどとして問題視され、地上波ではほとんど再放送されていない。単行本でも近年の増刷版では、一部セリフの表現が修正される/「読者のみなさまへ」など表現についての断り書きを入れるなどの措置がとられている。 日本のマンガやアニメは世界でも高いクオリティを持ち、その表現力は言語を超えるといわれている。いうまでもなくその基礎を築いたのは、「マンガの神様」ともいわれる手塚治虫氏その人。劇画中心のマンガ界にあって、デフォルメした一定のパターンに当てはめて人物を描き、絵にオノマトペ(擬音語・擬態語:無音状態を「シーン」と手書き文字を添えるなど)を取り入れるなど、コマそのものを記号化して意味を持たせたる手法を広く認知させた(後年氏は自分の絵を「象形文字」と表現している)。絵だけでなく、ストーリーにも記号を用いている。本作品に関していうなら「ばんもんの巻」は、明らかに板門店の記号であり、南北朝鮮分断や当時のベルリンの壁を象徴するものだ。マンガが、世界を、政治を語りはじめたのである。 記号的故に解釈も多彩で、差別的と誤解されて批判されるのも必然といえば必然なのかもしれないが、『どろろ』に関していうなら、アイデンティティを取り戻すというメッセージ性からか、海外の方がむしろ評価が高かったようだ。今度の20カ国に及ぶ海外配給もそのベースがあってのことか。 現在はデジタル読書向けに電子書籍化され、ケータイでも読むことができる(ケータイ版の発行元は手塚プロダクション)。ストーリーもさることながら、ケータイコミックの表現としては、百鬼丸と父・醍醐景光とが対峙するシーンが特に秀逸。両者の表情が交互にあらわれ、父子の葛藤が紙で読む以上に印象的だ。『どろろ』に限ったことではないが、ケータイ画面に表示される手塚作品を読むと、解体された一コマ一コマ、すなわち一つ一つの記号がより鮮やかに意味づけされていたことを今さらながら思い知らされることになる。マンガ記号論をあらためて考えるには、いいサンプルとなるだろう。 40年を経て、世界へ。日本のコンテンツ産業についてその根幹を見直す意味でもターニングポイントとなってほしい作品である。 ここから広告です 広告終わり この記事の関連情報電子書籍を探すならhon.jp
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