今年で『坊っちゃん』が書かれて百年になるという。〈東京っ子、夏目漱石〉を特集した「東京人」2月号の出久根達郎と半藤一利の対談でそれを知った。
漱石など柄じゃないおれだが、『坊っちゃん』は好きだ。といっても最初に読んだのが40歳をすぎてだから、自慢にもなりゃしないが。一読、なんて寂しい話だろうと思った。親兄弟にも愛されなかった坊っちゃんが心を許すのは、彼を溺愛(でき・あい)する下女の清だけだ。
世間に流布された熱血青春小説的なイメージとの落差に戸惑ったものだ。テンポの良さにまどわされて、スイスイ読んでしまうけど、意外と『坊っちゃん』は難物だぜ。そんなことを考えていたとき「文学界」2月号に小林信彦「うらなり」がのったので、絶妙なタイミングにおどろいた。
婚約者のマドンナを赤シャツに奪われた〈気の毒なうらなり君〉の側から『坊っちゃん』を読んだら、どうなるか。
坊っちゃんと山嵐が赤シャツをとっちめて松山を去った30年後、銀座4丁目の三越前で作中の語り手であるうらなりと山嵐が再会する。あいかわらず堀田(山嵐)は元気だ。懐かしいが、どこかぎくしゃくした会話の途中で、うらなり君は思う。「数学担当の若き日の堀田といっしょにいた、同じ数学教師の名を私は想い出そうとしていた」。しかし「名前がどうしても想い出せない」。
低い声で淡々と語られる、うらなりの半生も興味ぶかいが、小説の後半で山嵐が提示した『坊っちゃん』のもうひとつの読みが鮮やかな批評になっている。明治、大正、昭和の三代を生きた、気が弱そうにみえて意外とタフな英語教師の述懐からは、平成の世を生きる日本人が共有する、漱石とは異なる別種の寂しさがただよう。