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あの頃の自分に つけた決着 川本三郎「マイ・バック・ページ」

写真・郭允

 ボブ・ディランが、ノーベル文学賞に輝きました。ディラン世代でギターも弾いていただけに、うれしかった。この本の題名も、ディランの曲名からとったのです。ただ、本に書いた当時を振り返るのは、いまでも正直、気が重い。若い頃の不名誉な話が軸になっていますから。
 それなりのページを割き、1970年前後の社会の動きを駆け出し記者の視点から追っています。事件のことより、まずあの時代の熱気を記録しないと、伝わるものも伝わりませんから。
 朝日新聞社への入社は69年4月。1月には私が在籍していた東大で安田講堂事件が起きました。ベトナム反戦デモが続き、日本人カメラマンがベトナムの砲火の中に飛び込んで仕事をした時代でした。戦後民主主義にも勢いがあり、権力と向かいあう若者への支持も強かった。私が配置された朝日新聞出版局の、特に朝日ジャーナルは学生側に共感する人が目立った。
 駆け出しの頃はデモの取材によく行きましたが、これはきつかった。後輩の学生ら同じ年代の人々が目前で逮捕されていく。ベトナム戦争のさなか。戦場ではベトナムの人々が殺されている、と訴えが響く中、傍観者的立場にいる気がした。どうしてもジャーナリストになりたくて就職浪人をして記者になった。気負いもあり、「俺は何をしているんだ」と感じていました。
 入社3年目に、朝日ジャーナルの記者になります。新左翼運動の取材で知った男がいました。武器を奪う目的で埼玉県の陸上自衛隊駐屯地を襲う計画を男に明かされ、そして実際に事件を起こしました。私は「思想犯」としてインタビューし、スクープを狙いました。
 ただ、男にはうそをつかれた経緯があった。そこで現場から奪ってきた腕章などを預かり、記事化に際して犯行の証明にしようとしたのです。が、記事掲載は許されず、腕章は後に預けた知人に焼却を頼みました。それは証憑湮滅(しょうひょういんめつ)という罪に問われる行為でした。
 社会部記者とインタビューしたのですが、社会部の判断は、これは思想犯によるものではなく、一般的な殺人事件。市民の立場から男の情報を警察に通報するよう伝えられました。
 しかし、それはできなかった。取材源の秘匿はジャーナリストの守るべきモラルだ、と主張し続けました。一方で逮捕された男は、私との関わりを供述したそうです。私も72年1月に逮捕され、執行猶予付きの判決を受けました。

経験で得た「負けた人間への共感」

 人を見る目がなかったと思います。「何の罪もない人が殺されたんだよ」と逮捕前、兄に説得されたときはこたえました。先鋭化する左翼をどう取材したらいいのか心構えができていたのかどうか。ただ、当時どうすべきだったのか、いまもわからないところがある。
 「自分の事件として、いつか決着をつけなければ」。フリーの物書きになった人間としてそう考えていました。書くまでに10年以上かかりました。直後なら「朝日の悪口」をスキャンダラスに書くような注文がついたでしょう。それはしたくなかった。「あの時代を知らない世代に伝えてみて」という若い編集者のすすめが心に染みて、連載を始めました。自己正当化をしていないかなどと心配で、筆はなかなか進みませんでしたが。
 こういう経験をしていますから「負けた人間への共感」が強い。評論にしても、批判よりは好きになったところを書こう書こうとしてきたつもりです。
 苦労もありましたが、心の支えになってくれる人たちがいた。結婚の約束をしていた妻はまだ21歳の若さでしたが、逮捕後こう言ってくれました。「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」。08年6月に逝くまで、35年間連れ添いました。
 ジャーナル時代に知り合った井上ひさしさんは、フリーになってすぐ手紙や電話をくださり、知っている編集者たちに紹介してくれました。出版界も元気で、新しい書き手が飛び込んでいきやすい時代だった。
 例えばいま、あの事件に関わっていたらどうでしょう。ネット社会で袋だたきに遭い、再起不能だったかもしれない。いま、活字の世界でも名のある書き手が随分すさんだ書き方をするなど他者への言葉遣いがとげとげしくなっている。一方で、政治家がとんでもないことを言っても、内閣支持率は高いままです。このままみんなあきらめて、社会への理想主義は失われていくばかりなのでしょうか。(聞き手・木元健二)=朝日新聞2017年4月26日掲載