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筆一本で走る、決意の原点 黒川博行「キャッツアイころがった」

写真・伊ケ崎忍

 忘れもしない、37歳の誕生日でした。「キャッツアイころがった」が、サントリーミステリー大賞に選ばれたのは。1986年3月4日です。
 受賞から1年後、専業作家になろう、と決心する弾みになった、思い入れ深い作品。事実上のデビュー作と考えています。
 当時、大阪府立高校で美術の教員をしていました。僕はインドがとても好きでしてね。何度か旅して、「キャッツアイ」という、ほかの宝石と趣が違い、値段も張る宝石に心を引かれました。美術大学の女子学生2人に謎解きの旅をさせたのも、それを書いた80年代には、学生が海外旅行に行くことが珍しくもなくなっていたからです。
 いま読み返してみると「よくもこんな……」と思います。別人格に会うようで気恥ずかしくもなります。ただ、出来はつたなくても必死でした。
 いま、横溝正史ミステリ大賞などで選考委員を務めていますが、若い世代の作品を読んでいると「はつらつとしているなぁ」と感じ、「こんなこと僕も考えていた」と、かつての自分が心をよぎることがあります。
 京都市立芸術大学を出て、建築意匠関係の仕事につきました。でも、すごく忙しい。高校の美術教員をしていた妻の働く様子に影響され、27歳で同じ道を進むことになりました。
 すこし心の余裕ができたのか、ミステリー小説を乱読するようになりました。「1冊ぐらい書けるかなぁ」。そんな思いが芽生えたことから、今に至る長い道のりができました。

大阪弁の浸透 続けてこられた背景に

 その作家生活も、30年以上になります。38歳のとき、「筆一本で」と背水の陣を敷いて専業になったわけですが、それは定年を迎える年代を見据えた結果でした。教員をやめてそのまま年金暮らしに入るのか、作家として現役で働いているのか。僕は後者でありたい、と決心したのです。
 でも、最初は本当に売れませんでした。時折、授業をする自分の夢を見たのは、公務員の安定した暮らしを捨てたことを「どえらく」後悔していたからでしょう。人間相手の、教員の仕事が好きでもありましたしね。連載の仕事がくるようになるまでは、厳しかった。
 いまも昔も、新人賞などを得て、作家としてスタートラインに立つ人は、わりにたくさんいます。でも、長年「走り続ける」のは、実に難しい。それができるのは100人にひとりぐらい、と言ってもいいかもしれません。
 駆け出しの頃、大阪弁で書かれた作品は毛嫌いされたものです。ある編集者に、本が売れるのは関東で6割、関西で1割、あとの3割はほかで、と言われたこともあります。
 だから「東京の言葉で書けないか」「東京を舞台にできないか」とよく勧められた。でも、僕にはできない。
 そこで、「セリフ」に工夫を凝らすことにしました。僕の作品の持ち味は、軽妙な大阪弁のやりとりと、もしかしたら思われているかもしれません。でも、僕が書いているのは、実は大阪弁に擬した標準語です。大阪弁は、そのまま書くと、乱暴で下品な印象を与えてしまうのです。
 文字にするのの5倍ぐらいの分量を実際にしゃべってから、原稿に記している。いつもアヒルの水かきみたいなことしながら、書いているのです。
 だから、どうしても執筆に時間がかかる。1時間に原稿用紙1枚しか書けない。ずっと、年に1作のペースで作品を出してきました。そんなにも少ない作品で、よくこの競争の激しい世界で、生きてこられたと思います。
 それに、僕が作家になってからの年代は、たくさんの芸人が東京へと進出し、大阪弁がだんだん浸透していった。そうした世の流れが、やってこられた背景にあるのかもしれません。
 老いても現役で表現しつづけたいと作家の世界に飛び込み、直木賞もいただきました。67歳になった今もオファーがあり、書きつづけている。運に恵まれた作家だと思います。
 1冊に千円も2千円も払って、何日もかけて読んでくださる人がいる。ありがたい。これからも、読者に今を楽しんでもらえる作家でいたいですね。(聞き手・木元健二)=朝日新聞2017年2月1日掲載