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なんとなく、黄昏の予感 田中康夫「なんとなく、クリスタル」

写真・郭允

 『なんとなく、クリスタル』(「もとクリ」)を書いた1980年は、高度消費社会の幕開けの時期。中内㓛さんが牽引(けんいん)した「流通革命」を経て、堤清二さんが主導する「セゾン文化」が始まろうとしていました。
 身体を守るために、空腹を満たすために。それが着たり食べたりする第一義の目的。ところが容易に達成されるようになると次第に、すてきなデザイン、私が大好きなデザイナーの服、好みの味つけ――。本来の目的を離れた第二義、第三義に重きをおくようになります。「もとクリ」は、そうした「スタイリング化」現象を描いた作品でした。
 なのに、頭の空っぽなマネキン人形がブランド物をいっぱいさげて青山通りを歩いているような、文学以前の内容だと反発されたものです。星霜を経て、50代となった登場人物たちがイタリア料理を食べながら、深刻な少子高齢に直面する社会を語る女子会の場面も登場する『33年後のなんとなく、クリスタル』(「いまクリ」)を昨年末に上梓(じょうし)すると、相変わらず地に足が着いていない絵空事だと皮肉る人がいました。

高度消費社会 漂流の始まり

 では、牛丼をかっ込みながら世の中を憂える設定なら“リアル”なのでしょうか。美食家のフランス人が懐石料理を食べながらグローバリズムの弊害を語るのなら、問題視しないのでしょうか。
 料理も美容も政治も同じ次元で語れてしまう女性的な発想と行動。形式知の「ジェンダー論」を超えて、暗黙知とも呼ぶべきそうした“勘性”を、私たちは共有すべき転換点に立っているのだと思います。
 なぜか当時は誰からも言及されませんでしたが、442の「もとクリ」の注の最後には、当時の厚生省が発表した合計特殊出生率と高齢化率の将来予測数値を記しています。20代半ばだった僕は、量の拡大から質の充実へ認識を改めねば立ち行かなくなると感じたのです。
 ですが、衝撃的だった予測すら、現在の超少子・超高齢ニッポンを踏まえて改めて眺めると、随分と楽観的な数値だったのです。
 高度消費社会に生きる消費者に、選択の自由や利便を与えてくれると思われたインターネットの普及は、いつしか私たちを束縛したり監視したり、更には合併と買収の連続で供給側の寡占化も進行し、「流通」ならぬ「配給」のような、選択の幅が狭められた息苦しい空気が“なんとなく”強まっています。
 こうした中、日本は「黄昏(たそがれ)」なのかもと悲観するのがつらくて逆に、ちょっぴり空威張りな“ニッポン凄(すご)いぞ論”が最近は幅を利かせています。
 でも、夕焼けの名残の赤みは、夜明け前の感じとも似ているのです。スローフードを始めとして、身の丈に合った日々の生活を楽しんでいるように見えるイタリアやフランスは、日本の半分程度の人口。
 「市場では数値に換算できないもの=価値ゼロ」と捉える金融資本主義的な発想からの脱却が求められているのです。
 ただし、「トレンドを変えていくことで、50年後にも1億人程度の安定的な人口構造を保持することができる」と昨年6月に「骨太方針」を閣議決定した机上の空論的な“大本営発表”を、まずは改めるのが大前提だと思いますが。(聞き手・高重治香)=朝日新聞2015年1月13日掲載