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甘い破滅へ誘う大叙事詩 ゲーテ「ファウスト」

桜庭一樹が読む

 時は一六世紀。老ファウスト博士は「哲学、神学、医学、法学。すべてを学んだのに真理がみつからない。もうだめだ~」と絶望して自殺未遂した。すると、ドロン!! 霧の中から悪魔メフィストが現れる。「そんなあんたの願いを何でも叶(かな)えてやるぜ!」
 その代わり、老ファウスト博士が人生に満足して「時よ、止まれ。おまえは美しい」と言ったら、悪魔の勝ち。魂をいただいていくぜ、というわけだ。
 かくしてファウストは、若返って恋をして、時空を飛んで神聖ローマ帝国で冒険もして。さて、その果てにどうなった!?
 本書は、ドイツでいちばんの文豪ゲーテが、二十代から八十代まで約六十年も書き続けた一大叙事詩。聖書やギリシャ神話を元ネタにどんどん使い、自身の知のすべてを注ぎ込んでの、お祭り乱痴気(らんちき)騒ぎの大作だ。
 ……と紹介しつつ、これってじつは取扱注意の本なのかも?
 というのは、だ。難しく考えず楽しく読むうちに、いつのまにか読者までファウストの禁じられた欲望に浸食されてしまうという、ちょいと妙な作品なのだ。知の力によって幸福になるんじゃなく、「真理を道標にこの世の果てまで行ってみたい」「そうして破滅したい」「なんと甘美な誘惑か! 時よ、止まれ」というふうに。
 わたしは、そうだったそうだった、そもそも文学って危険なモノだった~、と思いました。
 ゲーテのもうひとつの代表作『若きウェルテルの悩み』では、最後に主人公が自殺してしまう。つられて自死を選ぶ読者が多くいたため、自殺報道の影響で後追いが増える現象のことを、後に「ウェルテル効果」と呼ぶようになった。
 ゲーテの正体は、世界文学界一の「冥界への誘惑者」なんじゃないかなぁ。青少年をウェルテルによって、大人をファウストによって、甘い破滅へと、時のない地平へと誘う、悪魔メフィストの化身、かも!?(小説家)=朝日新聞2017年7月16日掲載