中学生の頃、私は父の仕事の都合で西ドイツのハンブルクに引っ越して、インターナショナルスクールに通っていた。東西のドイツが統一されるより十七年、今からは四十五年も前のことである。それまで管理の厳しい日本の私立中学にいた私にとって、すべてに自由なインターナショナルスクールは、驚きの連続だった。ボーイズルームという個室では子供たちが現金をかけてポーカーをしており、私はビギナーズラックで大勝ちして友達を失った。
学校帰りには、よく移動式の屋台で売っていたポンフリを食べた。ポンフリというのは、Pommes fritesの略で、単なるフライドポテトのことである。当時1マルク(約百円)で、いかついドイツのおじさんが三角錐(すい)の紙の容器に山盛り入れて、好みでマヨネーズかケチャップを付けてくれた。
これが、何とも言えぬ美味だった。中身はしっとりして粉っぽさがなく、カリカリに揚げているのではないが、表面はサクッとしている。とはいえ、今ハンバーガーショップなどで食べるフライドポテトと比べると、大ぶりに切られていて揚げたてという違いこそあるものの、基本的な味は変わらず、マヨネーズとケチャップも、ごくごく平凡なものである。にもかかわらず、あれほど放課後が待ち遠しかったのは、いったいなぜなのだろうか。
一つにはジャガイモの品種の違いがあるかもしれない。ドイツ人は味覚に無頓着というイメージがあるが、実際、キッチンを汚すのが嫌なために、夕食をハムやソーセージなど冷たいもの、いわゆるカルテスエッセンで済ませることも多かったようだが、その反面、加工肉とジャガイモには並々ならぬこだわりを持っていた。同じジャガイモでも、茹(ゆ)でるのと揚げるのとでは違う品種を用いるらしい。
また、空気が違うと食べ物の味は変わる。ドイツの空気は冷たく乾燥していて、熱々のスナックを食べるには、これ以上ない環境だったはずだ。
さらに、すぐに腹が空く中学生と、現在のメタボな私とでは、味覚が違うのも当然だろう。当時は、油と糖質、塩分があれば何でも美味(うま)いと感じていた馬鹿舌の中学生が「作家の口福」を書くようになるとは、変われば変わるものである。
ドイツへ行く前にいた中学校では、どこでも同じだと思うが、学校帰りの買い食いは御法度であり、同じクラブの生徒たちがパン屋に立ち寄っただけで大問題になっていた。私にとって、屋台のポンフリとは、初めて経験する自由の味だったのかもしれない。=朝日新聞2018年04月07日掲載
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