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すてき過ぎるヒグマのステーキ 島地勝彦

 わたしにとっていちばんの大牢(たいろう)の滋味といえば、やっぱり北海道のヒグマの肉である。76年間の生涯でわたしは30頭は優に食べた。といっても1頭が300キロから400キロあるヒグマを全部食べたわけではない。部位のなかで別格に美味(うま)いのは左の腿(もも)肉だ。ヒグマは左側に横になって寝るからではないだろうか、とわたしは勝手に想像している。
 北海道のヒグマと本州のツキノワグマの味を比べると、月とスッポンの格差がある。ツキノワグマの肉はちょっと臭さが気になるので、味噌(みそ)と一緒にクマ鍋で食べるのが最適だ。
 一方ヒグマはステーキが圧巻である。とくに雪のように白い脂身が主役なのだ。赤身は硬くてそれほど美味くないが、脂身は軟らかくナッティーな芳香が鼻をくすぐってくれる。野生のヒグマは木の実を主食にしている。野生のクルミ、クリ、ドングリ、スモモを好んで食べている。思うにすべての食材はなにを食べているかで、その味は決まるのである。
 ヒグマの腿肉の脂身の部分を口にほおばるとえもいわれぬクルミやクリの香りが口中いっぱいに広がる。しかも人間に飼育された運動不足の牛とはちがって、1千メートル以上の深山に生息して自由奔放に駆け巡っているから、脂身が引き締まっているのだ。
 わたしは人間の肉以外はなんでも好んで食べてきた野蛮な男である。そのわたしが断言する。ヒグマの左腿の脂身に勝る肉は知らない。
 ここまで書いてヒグマを食べられる店を紹介しないほど、わたしは人が悪くない。その店は西麻布にあるフレンチで「コントワール ミサゴ」という。わたしはすでに今年のヒグマを1キロばかり食べたが、ほっぺたが落ちるくらい美味かった。ジビエの美味さは猟師の血抜きにかかっている。今回の猟師の下処理が見事だったんだろう。
 土切シェフが「ステーキばかりだと飽きるでしょう」と今年からしゃぶしゃぶ用に肉をスライスするマシーンを入れて、ヒグマのロースを薄く切ったものをしゃぶしゃぶ風に料理してくれている。これには脱帽した。この方法で食べると赤身も一役買ってくれてわたしは赤身を見直したくらいである。
 ここまで書いて値段のことを知らせないわけにはいかないだろう。まずヒグマのしゃぶしゃぶ2切れが出て、北海道のシシャモのフリッターとキノコが入った野菜サラダ、カレンスキンク(タラの燻製〈くんせい〉とジャガイモのスープ)、ヒグマのステーキ、デザート、紅茶がついて1人1万5千円プラス税である。=朝日新聞2017年12月02日掲載