「夫婦共に居職なもので、朝は各々(おのおの)として、昼も夜も家で食べてます」
「イジョクですか?」と訊(き)き返されて、近頃はこの言葉が通じにくくなっていることに気づく。
「自宅で仕事をしているんです」
「だから、お昼もですか。それは大変でしょう」と眉間(みけん)をしわめるのは、たいていが女性だ。
ことに数年前、私は仕事と家庭の事情が混み合って、台所に立つ時間にも困るようになった。まさに大難渋した。近所に住む母がせっせとお菜を作って運んでくれたが、毎日、全食というわけにはいかない。
外食やデパートの地下に頼るのも、やはり限界がある。記憶に残るように味がしっかりと濃く、疲れた胃袋には「旨(うま)いやろ?」のアピールがしんどい時もあるのだ。
しかもこの舌ときたら、食べられないものを欲しがる癖がある。鯛(たい)の昆布締(こぶじ)めに粕汁(かすじる)、鴨(かも)とクレソンの鍋、茄子(なす)の甘辛く炊(た)いたん。どれもこれも「私が作る、あの味」が恋しい。
「だから夫に、料理ができるようになってもらいました。包丁を持つ手つきも危うかったんですけど、今ではおでんからガパオ飯までこなします」
「上手に仕込まれたんでしょう」
「いいえ。褒めて育てる時間がなかったので、スパルタでした」
そこで黙り込むのは、ほとんどが男性だ。気の毒そうに目を伏せる。
「ええ。大変な抵抗に遭いました。滅多(めった)と喧嘩(けんか)をしなかったのに、互いに包丁を持ったまま大声を出し合ったほどで。危ないことで」と、私は笑う。
食材の入手から保存方法、何をどう下拵(ごしら)えして何から火にかけるか、何を明日に食べつなぐか。家庭の料理はまず段取りで、手先の器用さやセンスは一割ほどなのだ。頭さえ働かせる気があれば、わが家のメニューの大半は夫にも作れるはずだった。
初めは詳細なメモを渡さないと食材も揃(そろ)えられなかったが、夫は今では自身で企画してカートに入れていく。
「冷蔵庫にベーコンとキャベツ、大根も残ってるから、じゃが芋とパセリを買い足してポトフにしよ」
私が目についたものを手に取ると、注意されることもある。
「こっちの方が旨(うま)いし、安い」
「おや、すみません」
むろん、夫の方が忙しい日は私が台所に立つ。すると彼は箸を動かしながら、しみじみと洩(も)らす。
「やっぱり、おいしいなあ」
内心ではホロリとするけれど、そこを堪(こら)えてこう言う。
「私も、いつもそう思ってますよ」
本音だ。わが家の食卓が最もおいしいと思えることが、何よりの口福なのだろう。=朝日新聞2017年10月28日掲載
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