二十代半ばの頃、美しい女優さんが書いた短篇(たんぺん)を読んだ。ヒロインが予定外の外泊をする。翌朝、メイク道具を持っていなかった彼女は、その部屋にあるさまざまなものを駆使していつも以上に美しくメイクする。美への執念に感心しつつ、その得意顔を想像すると、戦慄(せんりつ)さえ覚えた。
それからしばらくして、少し離れたところでひとり暮らしをしている弟から連絡があった。ひどい風邪を引いて寝込んでいるという。夜も遅い時間だったのだけど、とりあえず私の部屋にあったゼリーや桃の缶詰を鞄(かばん)に詰めて、弟の住む部屋へ向かった。
体調を崩してからは食欲もなく、ほとんど何も食べていないのだという。それでも、肉親が来たことで安心したのか、「おかゆが食べたい」といった。お安い御用だ。キッチンへ行ってから、はたと困った。どこに何があるのかわからない。正確にいうなら、どこにも何もない。冷蔵庫を開けてもほぼ空で、古い卵やジャムが入っているだけだ。シンクの下の桐(きり)の箱からようやくお米を見つけてほっとした。とりあえず、これでおかゆは炊ける。でも、味も具もない。寝込んでいる弟が欲しているのは、きっと、私たちの母がつくってくれた卵のおかゆだ。それなのに、卵は賞味期限が切れている。今と違って終夜営業の店は少なく、その近所にはなかった。新たな食材は手に入らないということだ。食器棚の中、引き出しの奥、キッチンのあらゆる場所を探して、うずらの卵の瓶詰を見つけた。卵といえば卵だ。ちょっと迷ったものの、小さな卵を細かく刻んで、おかゆが炊き上がる寸前、蒸らす間にさっと混ぜた。最後に塩で味をつけて、できあがり。とろとろのひよこ色が、白いかゆに混じって目にもやさしい。……はずだったけれども、茹(ゆ)でたうずらの卵でつくったから、それほどきれいではなかった。おかゆ自体も、どうもいつもと塩梅(あんばい)が違うようでもあった。
器によそって持っていくと、弟はうれしそうにベッドから身を起こした。そうして、スプーンですくって、ふうふう冷まして、口へ運んだ。「どう?」と聞くと、「熱くて、味がわからない」。そういって、ふたくち、みくち、食べると、スプーンを置いてしまった。体調がよくないんだな、と思いながらキッチンへ戻り、小鍋に残ったおかゆをひとくち食べて、驚いた。思っていた味と全然違った。尋常ではない粘り気と嚙(か)み応え。桐の箱に入っていたのは、もち米だったらしい。
そのとき、唐突に、かの女優の短篇を思い出した。いろんなものを使って完璧にメイクしたつもりで、案外、もち米が混じっていたんじゃないだろうか。だとしたら、得意げな顔もちょっと可愛かったのかもしれない。=朝日新聞2017年09月09日掲載
編集部一押し!
- 売れてる本 岩尾俊兵「世界は経営でできている」 無限に創造できる人生の価値 稲泉連
-
- インタビュー 鈴木純さんの写真絵本「シロツメクサはともだち」 あなたにはどう見える?身近な植物、五感を使って目を向けてみて 加治佐志津
-
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 黒木あるじさん「春のたましい」インタビュー 祀られなくなった神は“ぐれる”かもしれない 朝宮運河
- コラム 三浦しをんさんエッセー集「しんがりで寝ています」 可笑しくも愛しい「日常」伝える 好書好日編集部
- インタビュー 「親ガチャの哲学」戸谷洋志さんインタビュー 生まれる環境は選べない。では、どう乗り越える? 篠原諄也
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社