好きな食べものは何ですか、と聞かれたら、ちょっと迷う。銀杏(ぎんなん)かな、胡瓜(きゅうり)かな、鯛(たい)も好きだな。でも、好きな果物はと尋ねられれば即答できる。桃だ。桃が好きだ。そこにあるだけでしあわせな気分になる。
毎年、桃にだけは贅沢(ぜいたく)をする。まずは走りに果物屋さんで選び、旬になれば生協で注文し、スーパーで買い、おいしいと聞いたものを取り寄せる。常温で食べ、冷やして食べ、皮をむいて食べ、またあるときは、むかずにかぶりつく。固めのものをカリッと齧(かじ)り、やわらかくなったものをゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。岡山の桃、山梨の桃、福島の桃、長野の桃。思いつく限りの桃を食べ、それで満足できるかといったら、そうではない。いつも、少し不満だ。香りから期待するより甘くなかったり、味がぼやけていたりする。実の上のほうと下のほうで味が違いすぎるのも残念だ。こんなものではない、と思う。もっともっとおいしいはず、と思う。私の中の桃はもっと甘くて、もっと果汁が滴って、芳香にむせるようで、ひとつ食べると寿命が延びるような桃。桃に対しての期待は天井知らずだ。
一度、息子が、私のむいた桃を断って、
「桃って、思うほどおいしくないよね」
といった。むう、と唸(うな)った。その通りだと思った。でも、それを認めたら、私は桃に夢を見ているだけで、実はそれほど好きではない、ということになってしまうのではないか。そうではない。私はたしかに桃が好きなのだ。
完璧な桃にどこで出会ったのだろう。もっとおいしいはずだと頑(かたく)なに信じ続けることができるのは、どこかで理想の桃に出会っているからだ。それをいつどこで食べたのだったか、記憶を遡(さかのぼ)ってもぼんやりしている。頼りになるのは、小さい頃から桃が好きだった自分の気持ちだけだ。
この夏、むすめが、地元のショッピングモールの中のフルーツジュースの店に連れていってくれた。この店の桃のスムージーがすごくおいしいのだそうだ。半信半疑だったけれど、ひと口飲んで、びっくりした。おいしかった。むすめがうれしそうに私を見た。
「ね、おいしいでしょ。桃と水と氷だけで、あとは何も足してないらしいよ」
得意げに語るむすめに、そうなんだ、と答えた。そんなはずはない、とはいわなかった。むすめは私の桃好きを知っていて、私をよろこばせたくて連れてきてくれたのだ。でも、桃と水と氷、そこに少なくともシロップは足しているだろう。だって、私の桃がこんなに甘いわけがない。桃がこんなにおいしかったらおかしい。そう考えている自分に、愕然(がくぜん)とした。こんなにおいしいはずがない、と思う私はほんとうに桃が好きだったんだろうか。=朝日新聞2017年09月23日掲載
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