胃の摘出手術を受け、一月(ひとつき)ばかり経った。相も変わらず、白いメシのおいしさったらなかった。口に含む。すると、米粒がイオンになって、口中で踊る感じがした。
最近は、テレビで旅番組が多く、必ず食べるシーンがはめこまれている。若いタレントが珍しいものを食べ、必ず発する言葉がある。
「あまーい」
「やわらかーい」
その産地へ行って食べているのである。食材の中には、糖がたくさん残っている。釣ったばかりの魚を食べると、都会で食べる刺し身よりはるかに甘い。生物の肉や組織には、糖が単離(たんり)された形でしまわれている。死ぬと、この糖は、分解されてしまう。刺し身が新しいと、糖がそのまま残っていて甘いのである。
私は家に帰った。やはり米のメシはうまかった。
女房に訊(き)いた。
「うまいなあ。この米、どこか特別な所でとれた米かな?」
「普通ですよ。いつもの米屋から買ったものです」
うまくて、うまくて。食べてしまうのをもったいないと感じた。米粒を口の奥へ送る。奥歯で嚙(か)む。すると、米のエキスが、口腔(こうこう)の粘膜全体に広がり、食道ではなく、粘膜から直接吸収される気がした。
私は食べる。最後の一口を口にほうりこむ。その手が下におりなかった。胸の前で、両の手を合わせる形になって、「ごちそうさま」と、呟(つぶや)いていた。
この瞬間、生きていると実感した。
“生きていてよかったな”
そうしみじみ思った。
私は、強がりと負けぬ気で生きてきた。ガンじゃないかと考えぬ日はなかったが、すぐに、なあに、負けるものかと反発した。
“ガンが何だって言うんだ。負けるもんか。さあ、かかってこい”
そういきがっても仕方がないことである。第一、人がガンに勝てないのはよく知っている。
でも、でも、でも……。
私は迷い、苦しみ、ある意味もだえてもいた。そんな感情を、米のおいしさが一掃してくれたのである。
――ああ、おれは生きてる。
そう感じると、この感覚こそが本物だと思った。若い頃、哲学にこっていた。カント、ヘーゲル、ショウペンハウエル。人生とは何ぞや、と難しい言葉で語り合ったものである。
だけど、それは、術後の白いメシの一口に勝てなかった。
同時に、自分は何かに生かされていると思った。有難(ありがと)う、と茶碗(ちゃわん)に手を合わせ、私は旅のことを思っていた。=朝日新聞2017年07月08日掲載
編集部一押し!
- 著者に会いたい 奈良敏行さん「町の本屋という物語 定有堂書店の43年」インタビュー 「聖地」の息吹はいまも 朝日新聞読書面
-
- インタビュー 鈴木純さんの写真絵本「シロツメクサはともだち」 あなたにはどう見える?身近な植物、五感を使って目を向けてみて 加治佐志津
-
- インタビュー 「尾上右近 華麗なる花道」インタビュー カレーと歌舞伎、懐が深いところが似ている 中村さやか
- 中江有里の「開け!本の扉。ときどき野球も」 生きるために、変化を恐れない。迷いが消えた福岡伸一「生物と無生物のあいだ」 中江有里の「開け!野球の扉」 #13 中江有里
- コラム 三浦しをんさんエッセー集「しんがりで寝ています」 可笑しくも愛しい「日常」伝える 好書好日編集部
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社