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アファナシエフ「ピアニストは語る」書評 森の中で過ごすような音楽とは

評者: 星野智幸 / 朝⽇新聞掲載:2016年10月30日
ピアニストは語る (講談社現代新書) 著者:ヴァレリー・アファナシエフ 出版社:講談社 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784062883894
発売⽇: 2016/09/15
サイズ: 18cm/242p

ピアニストは語る [著]ヴァレリー・アファナシエフ

 好き嫌いにかかわらず、アファナシエフは誰にとっても唯一無二のピアニストだ。この原稿を書いている前日に私はコンサートに行ってきたばかりで、体の緊張が和らいでいる。私にとってアファナシエフは最も美しい音を出す演奏家だが、これをホールで生で聴くのは、森の中で一日をゆっくり過ごすようなものだ。耳に聞こえない音や静寂まで含めて、自然の音を肌に浴び続けるかのよう。
 なぜ、こんな音を出せるのか。その理由を私は、ロングインタビューである本書から二つ見つけた。
 まずは、筋肉が緊張して不必要な力が入らないよう、自分にとって自然な姿勢と演奏法を身につけたこと。幼いころにその指導を受けたことが決定的だったという。アファナシエフは登場すると歩きながらそっけないお辞儀をして、座るやいなや演奏を始める。その途端、ホールが美しい音で満たされる瞬間はいつも奇跡だ。芸術家っぽくじっとピアノの前で集中したり、陶酔して首を振ったり体を揺らしたりはほとんどしない。余計なものはなく、ただ音楽と共にあるのだ。
 もう一つは、メロディ(旋律)よりハーモニー(和声)を重視していること。音楽の理論は素人の私にはわからないが、私はいつも文学に置き換えて共感している。すなわち、物語よりも言葉を重視する。物語(メロディ)が一方向に流れる時間ならば、言葉(ハーモニー)はその瞬間の現在を満たすもの。物語ばかりを優先しすぎると、現在のかけがえのなさが失われてしまう。物語は、今を必死で生きる自分の連続の上にしか現れない。
 アファナシエフはこれらの音楽論を、ソ連からの亡命や、その後の決してメジャーにはならなかった困難な人生と重ねて語る。自分であり続けるとは、その努力が叶(かな)わない運命と折り合いをつけることでもある。その世界観がアファナシエフの音楽であり、聴く者を解放してくれるのだ。
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 Valery Afanassiev 47年生まれ。バッハ国際音楽コンクールなどで優勝。小説『声の通信』や詩集も出版。