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「ヒトラー」書評 社会がつくった特異な扇動家

評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2016年07月10日
ヒトラー 上 1889−1936傲慢 著者:イアン・カーショー 出版社:白水社 ジャンル:エッセイ・自伝・ノンフィクション

ISBN: 9784560084489
発売⽇: 2015/12/27
サイズ: 22cm/611,190p 図版32p

ヒトラー (上)1889−1936傲慢 (下)1936−1945天罰 [著]イアン・カーショー

 著者は「ナチズム研究」では国際的に名の知られた英国の研究者である。本書は20年近く前に刊行された大部の書だが、やっと邦訳が出た。
 20世紀になぜヒトラーのような指導者が生まれたのか、それは単にドイツ社会が病んでいたためか、それともヒトラーのもつ性格、思想、言動がこの世紀に隠されていた地肌を浮かびあがらせたのか、著者はそのような疑問を確かめるために、多くの史料、記録文書を読み漁(あさ)り、ヒトラーの人間性の骨格に迫っていく。真実は細部に宿るというかのように、ヒトラーを軸にドイツの20世紀前半の歴史上の因果関係を辿(たど)っていく。とはいえ読み進むうちに著者の論点が明確になってくる。
 第1は、「ヒトラー」は第1次大戦後のドイツ社会によってつくられた存在だということ。第2は、この時代は常に危機が誇張され、弁の立つ扇動家が生まれる大衆社会だったということだ。この論点を浮きぼりにする表現が巧みに用いられている。抜きだしてみよう。
 「一九世紀的な世界の終末の特徴を備えた都市は、ウィーンをおいてほかになかった。このすべてが若きヒトラーを作り上げた」「戦争についてはヒトラーは完全に狂信的だった」「一九二〇年代初頭には、ヒトラーは大衆を『国民的運動』に駆り立てる『太鼓たたき』であることに満足していた」との青年期は、とりたてて何か事を成すタイプではない。しかししだいに頭角をあらわすのは、自らの神秘性を高める各種の演出のためであった。
 「教養ある知的な人びとも含めて、多くの人びとがヒトラーの特異な人格的特徴に抗(あらが)いがたく魅(ひ)かれた。その魅力が演技力の賜物(たまもの)だった」「『ヒトラーが首相になった。おとぎ話のようだ!』とゲッベルスは日記に記した。(略)一年前には狂信的なナチ以外にはほとんど誰も可能とは考えていなかった」
 といった形で首相の座に就くのだが、著者は評伝と社会史を一体化させてヒトラーの独裁政治が侵略と殺人と民族抹殺を組織的に進めるプロセスを暴く。もっとも印象に残る指摘は2点に絞られる。「ヒトラーは一度として、野戦病院や空襲で焼け出された住民を慰問したことはなかった」、ヒトラーは人間をこっけいな「宇宙のバクテリア」と評していたのである。もう1点は、「ヒトラー体制下での所業の責任を取ることを余儀なくされた者のなかで、罪の意識は言うに及ばず、深い悔恨や悔悟を示した者もほとんどいない」というのだ。
 人間性の崩壊という病理を人類は克服しえたか、はなはだ心もとないとの悪寒に襲われる。
    ◇
 Ian Kershaw 43年、英国生まれ。シェフィールド大学名誉教授。英国を代表するドイツ史家。著書に『ヒトラー 権力の本質』『運命の選択1940—41 世界を変えた10の決断』など。