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中年くすぐる懐かしい香り 「未必のマクベス」(早瀬耕)

 この小説の魅力を語るのは難しい。経済小説であり、犯罪小説であり、ハードボイルド小説であり、恋愛小説でもあるのだが、そういうジャンルに押し込もうとすると、魅力がどんどんこぼれていく気がするからだ。
 文章が滑らかで気持ちいいこと。どこか甘く、懐かしい香りが漂っていること。遠い昔のことをどんどん思い出すこと。小説を読むということは文章を読むということなのだが、その基本的なことを改めて感じること――そう言っても間違いではないが、これもまた一つの特徴にすぎないような気がする。
 だから、こう言い換える。高校時代にちょっと気になる女の子がいて、特になにがあったわけではないのだが、それからも折に触れて彼女を思い出すそういう経験のある中年男性に本書をすすめたい。あるいは企業の第一線で仕事をしながらも、特に将来を考えず、恋人がいても結婚を夢見ず、そして友人のいない中年男性に本書をすすめたい――こう言うのがいちばん正確なような気がするが、これは本書にはどんな人が向いているかという読者分類であり、本書の内容を語ってはいない。
 そうか、もっと具体的に書いておこう。年上の上司にして恋人となる由記子、同級生にして同僚の伴を始めとして、ビジネスとして優一を助けるカイザー・リー、優一のボディガードとなる蓮花にいたるまで、登場人物がとてもリアルに鮮やかに描かれているのがいい。さらに、過去と現在を巧みに交錯させる絶妙な構成がいい。そしてなによりもいいのが、センスあふれる文章だ。
 読み始めるとやめられなくなる。これほど素晴らしい小説はそうあるものではない。単行本のときは売れなかったというのが信じがたい。それでも文庫にして多くの読者を摑んだというのが嬉しい。しかし私にいわせればまだ足りない。もっともっと売れていい。もっと広く読まれるべきだと思うのである。
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 ハヤカワ文庫JA・1080円=12刷6万2千部。単行本は14年刊。若手社員が「良作が埋もれてしまう」と訴え、17年9月に文庫化でリベンジ。東京・吉祥寺の書店から火が付いた。=朝日新聞2018年6月9日掲載