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高村薫「土の記」書評 自然への畏怖の欠如に一撃

評者: 末國善己 / 朝⽇新聞掲載:2017年02月12日
土の記 上 著者:高村 薫 出版社:新潮社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784103784098
発売⽇: 2016/11/25
サイズ: 20cm/248p

土の記(上・下) [著]高村薫

 日本が抱えている問題を暴いてきた著者の新作は、農業を題材にしている。
 物語の舞台は、奈良県の山間集落。主人公は、交通事故に遭い、長年、植物状態だった妻を半年前に亡くした72歳の伊佐夫である。
 作中には、妻の祖母が山で行方不明になった事件や妻の不倫疑惑、少女の失踪なども描かれるが、これらの謎はメインではない。物語の中心は、大手電機メーカーを定年退職し、大学で専攻した地質学の知識を使って実験的な農業をしている伊佐夫の日常なのだ。
 農村の生活が淡々と描かれるだけなので、大きな事件が起こるわけではない。
 ただ伊佐夫は加齢による知覚の変化か、初期の認知症か判然としないものの記憶に空白が多く、過去と現在、現実と妄想の区別が曖昧(あいまい)になっている。これが幻想小説のような味わいを生み出しているのである。そして農作業の手順を微に入り細に入り描写したり、動物や植物の名前を羅列したり、風の音やカエルの鳴き声をオノマトペで表現したりする呪文のような文体が幻想性に拍車をかけている。この中に少子高齢化、格差、世代間ギャップといった都会も地方も変わらない社会問題が織り込まれているので、一気に物語に引き込まれてしまうだろう。
 やがて東日本大震災が発生。伊佐夫も大津波の映像に驚くが、特に変化はなく毎日のように田畑へ通う。まるで未曽有の被害を出した東日本大震災も、地球46億年の歴史から見れば、ささいな自然現象に過ぎないとでもいうかのように。
 著者は、東日本大震災や原発事故に関して積極的に発言してきただけに、後半の冷淡さには違和感を持つかもしれない。だが著者の意図は、凄(すさ)まじいインパクトがある最終ページで明らかになる。ここには、自然への畏怖(いふ)が失われている現状、天災を他人事(ひとごと)と考える想像力の欠如への痛烈な批判がある。胸に突き刺さる指摘が、驚愕(きょうがく)をより大きくしているのは間違いない。
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 たかむら・かおる 53年生まれ。作家。著書に『マークスの山』(直木賞)『晴子情歌』『太陽を曳く馬』『冷血』。