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「慈しみの女神たち」書評 凡庸な虐殺者へ問いかけ

評者: 斎藤環 / 朝⽇新聞掲載:2011年07月24日
慈しみの女神たち 上 著者:ジョナサン・リテル 出版社:集英社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784087734737
発売⽇:
サイズ: 22cm/555p

慈しみの女神たち(上・下) [著]ジョナサン・リテル

 恐るべき小説だ。二段組上下巻計一〇〇〇頁近いその浩瀚(こうかん)さもさることながら、執筆時三十八歳という作者の年齢、ハイパーリアルな筆致で描き込まれた細部の膨大さ、ゴンクール賞とアカデミー・フランセーズ文学大賞ダブル受賞という栄冠に加え、全世界で130万部を売った問題作。すべてが桁外れだ。
 語り手である主人公は、もとナチ親衛隊将校で、フランス人として戦後を生き延びたマックス・アウエという老人だ。ナチスを主題としたフィクションは数多いが、その多くは犠牲者視点かヒトラーその人に焦点化したものであり、こうした視点は珍しい。さしずめ副題は『凡庸な虐殺者の肖像』ともなろうか。
 そう、問題はこの凡庸さにある。これは、ホロコーストに深く関与して戦後処刑されたアイヒマンについてハンナ・アーレントが述べた「倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマル」(『イェルサレムのアイヒマン』)という形容を念頭においてのことだ。ただしそれは、けっして「凡庸=ノーマル」という意味ではない。
 法学博士のアウエは、常にポケットにフロベールの『感情教育』を携行し、あろうことかアイヒマンとカント倫理学について議論するような青年だ。「個人の意志の原理が〈道徳律〉の原理となりうるようにすべし」という〈定言命法〉は、「自らの意志を〈総統〉の意志として」とあっさり言い換えられ、ユダヤ人殲滅(せんめつ)を正当化する原理にすり替えられる。死体の臭いに吐き気をもよおしつつも、導入部では「殺す者は、殺される者と同じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ」などと、ぬけぬけと語るアウエ。
 教養人として申し分がないほど〈凡庸〉なアウエが殺人に関わっていく過程は、いかなる病理とも無関係だ。複雑きわまりない指揮系統と人間関係の集積からなる、時に退屈な日常が彼を変えていく。明晰(めいせき)な意識と十分な内省能力を持ってしても、〈殺人〉は防ぎ得ないということ。いまや私は確信する。ホロコーストの問題は、ドゥルーズの言う「潜在性」の問題にほかならないのだと。それは「あなたもそれをなし得た」という「可能性」の問題とは決定的に異なる。むしろそれは「なぜそんなことがなされえたのか?」という執拗(しつよう)な問いとして、私たちにつきまとう。
 この種の潜在性を確実に抑圧するには、別の〈現実化〉の回路が必要だ。本作の真に「恐るべき」功績は、こうした〈現実化〉のための、この上なく見事な形式を発見したことによって極まる。
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 菅野昭正他訳、集英社・上巻4725円、下巻4200円/Jonathan Littell 67年、米国生まれ。米仏で育ち、現在はスペイン在住。