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京都を知る 王朝、町衆、文化のバトンどこへ

京都の町衆文化の象徴、祇園祭。2015年の後祭での山鉾巡行

 このあいだの戦争が話題になれば、何よりもまず応仁の乱を想(おも)いおこす。昭和の対外戦争ではなく、室町時代、一五世紀の内乱が脳裏をよぎる。それが、京都でくらす人びとの戦争観であると、よく言われる。
 千年の都を自負するだけあって、やはり変わっているね。歴史の見方も、のんびりしているよ。そう京都人は、しばしばからかわれてきた。
 だが、一五世紀までさかのぼる由緒をほんとうにほこれる家は、ほとんどない。どんな御名門も、京都での来歴は、たいてい江戸時代以降になるだろう。冷泉家のような例外も、もちろんあるが。
 幕末の京都を炎でつつんだ蛤(はまぐり)御門の変なら、リアルに懐古する家は少なくない。うちはあれで焼けたんや、うちもそうやというやりとりは、じっさいによく聞かされる。京都は第二次世界大戦で、空襲をほとんどうけなかった。おかげで、今のべたていどには悠長な戦争観も、この街には息づいている。

応仁の乱の意味

 応仁の乱じたいは、日本史において決定的な意味をもった。そのことを、歴史家の内藤湖南は『日本文化史研究』(一九二四年)で、こう論じている。
 「大体今日の日本を知るために……古代の歴史を研究する必要は殆(ほとん)どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感じられませぬ」
 関東で鎌倉幕府や江戸幕府が成立したことを、そう大きな転換点とはみなさない。京都を舞台とした内乱こそが、日本の歴史をわける分岐点になるという。私はこの見方に、いかにも京都的な学風を感じる。
 応仁の乱以後、京都の王朝文化は衰退へむかいだす。そのおとろえを、おおいなるデカダンスの歩みとしてとらえる本は、まだない。私は、『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)のような叙述を、読みたいのだが。

「衰退」の美意識

 林屋辰三郎は、江戸時代の京都で市民社会が形成されたことを、力説した。町衆、町人の勃興を、かがやかしく論じた歴史家である。その『京都』(一九六二年)は、今でも京都の歴史と地誌を語る、好個の案内書たりえている。
 なかでも私は、桂離宮と角屋(すみや)の呼応ぶりを見ぬいたくだりに、魅力を感じてきた。王朝文化をつたえる皇族の別荘と色街のサロンが、共通の意匠でいろどられる。そこに林屋は、朝廷と市民がわかちあう寛永文化を、想定したのである。
 桂離宮のあざやかな表現は、失われた王朝文化への憧れにねざしていただろう。喪失感の賜(たまもの)にほかなるまい。それが、一七世紀の隆盛へとむかう市民の社交場へ、寛永期につたわった。私はこの時、王朝から町方への文化的なバトンタッチがあったのだと、みなしている。じっさい、桂離宮=角屋の意匠は、花街の料亭などへ、ひろく普及していくのだから。
 とはいえ、このごろはその市民文化も、あまりふるわない。ずいぶん、色あせてきたように思う。
 杉本秀太郎は、二〇世紀後半の京都をえがいてきた。文章のこまやかさで、読書人をうならせた著述家である。その繊細さには私も脱帽する。が、同時にデカダンスの気配も感じてきた。その筆法は、一七世紀の桂離宮に見られる美意識をほうふつとさせもする。杉本じしん、こう書いている。「私の京都はすでに懐郷のなかにあるだけだ」(『洛中生息』一九七六年・みすず書房、ちくま文庫=品切れ)。
 梅棹忠夫は、京都中華思想をあられもなくふりかざす(『京都の精神』一九八七年)。その裏側にも、例のデカダンスはあると見るが、どうだろう。=朝日新聞2016年5月8日掲載