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オウム真理教と閉塞の時代 危機感植え付け遊びを本気に

オウム真理教第6サティアンの出入り口付近に集まった捜査員たち=1995年5月16日、山梨県上九一色村(当時)

 石川啄木が「時代閉塞(へいそく)の現状」を書いたのは1910(明治43)年。日露戦争の勝利で維新以来の右肩上がり志向も一段落し、若者は何をしていいか分からない。閉塞感が漂う。そこを啄木は敏感に論じた。
 オウム真理教はというと、高度経済成長も一段落した昭和の終わりに、やはり若者の鬱屈(うっくつ)を吸引して成長した。文明は行き詰まっている! 人間自体が変わらねば! 理性ではなく霊性や超能力を問題とした。
 実は啄木の活躍期も、千里眼や念写のブームと重なっていた。右翼革命家、北一輝が『国体論及び純正社会主義』(『北一輝思想集成』所収、書肆心水・7452円)を著したのは明治39年。そこで北は、天皇の霊性に照らされた日本人が人類から神類にすぐ進化しうると説いた。ダーウィンの進化論を応用した疑似科学的記述がいっぱい。大正に入ると世間では手かざしによる病気治療や特殊な食事による体質改善が流行した。閉塞と超能力の時代は明治末・大正期にもあった。

外敵つくり結束

 だが、疑似科学はじきに見破られる。それでも似た真似(まね)を続けるとすれば「ごっこ」にならざるを得ない。『約束された場所で』は村上春樹によるオウム真理教関係者へのインタヴュー集。ある信者が語る。
 「それからコスモ・クリーナーがらみで、できたばかりの〈防衛庁〉に移りました。九四年のことです。すごいですよね、名前が(笑)。(中略)僕はこれは遊びなんだと考えてやっていましたよ」
 遊びと本気の違いは? やめられるのが遊びだ。「いちぬけた」だ。無責任、刹那(せつな)主義、思いつき。昨日千里眼、今日手かざし、明日断食という具合。
 かくして「ごっこ」も短命に終わりそうだが、そうならないときもある。「ごっこ」の内部で非常時を演出し、外部に敵を作って内部の凝集力を強め続けられたときである。麻原彰晃は、教団が外部から毒ガス等で攻撃されていると主張し、信者に危機意識を植えつけた。カリスマのもとで敵に向かって結束する。世の中からはみ出ているというコンプレックスの共有が、内部の一元化・同質化と、外部に対する攻撃性を相乗的に高める。

国家並みの武装

 この回路が働き出すと容易に止まらない。遊びが本気に化ける。1930年代のファシズムの本質はそれだ。教団ぐるみで起きることは国ぐるみでも起きる。心理学者、W・ライヒの説を援用した久野収の「ファシズムの価値意識」を味読したい。
 麻原彰晃がオウム真理教を設立してから死刑になるまで31年。北一輝が『国体論及び純正社会主義』を刊行して右翼のカリスマとなり死刑になるまで、やはり31年。最初に異常な何かとして現れたものが装いを変えて一般化するのに程よい長さなのかもしれない。北は2・26事件に連座して銃殺刑に処せられたが、そのとき北の夢見たファシズム的体制は日本国家によってかたちにされつつあった。オウム真理教のファシズム的性向を、閉塞する現代日本は無意識になぞっていないか。
 しかもオウム真理教はテロの高度科学技術化という点では世界史的に突出していた。戦前の右翼テロは刃物や拳銃で、戦後の新左翼のテロも手製爆弾。が、オウム真理教は化学兵器を都心で使用した。国家と見紛(まが)う武装を民間でなした。もしもオウムとドローンが結びついていたら? ポスト・オウム時代のテロへの想像力を培うにはG・シャマユーの『ドローンの哲学』が格好。
 オカルト、ファシズム、テクノロジーのトライアングルとして、オウム真理教が改めて見つめ直されるべきだろう。同じ穴に落ちないために。=朝日新聞2018年8月4日掲載