『老後の資金がありません』なんて、大学生の娘を持つ私には正直、「他人事(ひとごと)」のような響きがした。というのは、未(いま)だに「子ども一人、出産から大学卒業まで日本で育てるには3千万円がかかる」という呪文にかかっていて、老後など考える余裕がなく、「学費を稼がなきゃ」の一心で奮闘中なのだ。
しかしこの作品に登場する主人公、銀行系のクレジット会社で事務職として働く後藤篤子は、私と同年代の53歳。4歳上のサラリーマンの夫と、近々結婚する28歳の娘、就職が決まった大学4年生の息子という4人家族で、最近夫婦の老後資金に貯(た)めた1200万円を崩し、娘の結婚費用に充てることについて悩んでいる。そんな最中、舅(しゅうと)が危篤という知らせが届いた……。
冠婚葬祭。一見プライベートなことのようでも、人によって社会的身分や地位を誇示するイベントに利用したり、「愛情表現」のために無理して見栄(みえ)を張ったりしてしまう。結婚式と葬式が立て続けに行われた後藤家、貯金は一気に300万円を切ってしまった。
それでも定年まであと3年働ける大黒柱の夫がいて、退職金も1千万円くらい入る見込みがある。夫のいない家庭にとってはやはり羨(うらや)ましい。が、そう穏やかに終わらせないのが小説だ。やがて篤子は夫婦ともどもリストラされ、出費を抑えるために姑(しゅうとめ)と同居する羽目に……。「老後」に追い詰められていく後藤家。それに絡むようにして幾つかほかの物語も同時進行する。2億円あった老後資金が16年で底をついたという夫の両親。パン屋の経営に行き詰まり、失踪した姑の年金をあてに暮らす友人サツキ。年金を騙(だま)しとるための「老人レンタル」ビジネス等々、老齢社会の厳しい現実をコミカルな文体に乗せて読者を惹(ひ)きつけて離さない。
本を閉じる。いつか見た「子育てが終わったら世界を周遊して暮らす」という夢は脳裏に蘇(よみがえ)るもすぐ消えていった。老後はもう、そこまで迫ってきている。
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中公文庫・691円=11刷19万部。3月刊行。版元によると15年に単行本が出た時よりも文庫の反響が格段に大きく、「定年」「老後」本ブームもあり、40~60代主婦層に広く読まれている。=朝日新聞2018年8月11日掲載
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