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「さくらについて」追悼・さくらももこ

1986年から「りぼん」に連載した「ちびまる子ちゃん」を始め、個性的なキャラクターを生み出した

さっぱりとした価値の転倒

 さくらが『ちびまる子ちゃん』を連載し始めて一年くらい経った時だったか、担当編集者が私の大学時代の友人だったこともあり、会おうということになった。彼らが思うほど漫画が受けていないというのである。どうすればいいだろうという妙な相談であった。
 忘れもしない東京都江戸川区・船堀の健康ランドへ我々は出かけた。さくらは女風呂だから、待ち合わせ場所にアロハ姿で集まって初めて対面したようなものだった。
 すでに漫画を読んでいた私は「これは女子だけに向けていてはもったいない」という話をした。笑い好きな男たち、少女漫画を卒業した女性陣にもアピールすべきだと思ったからだ。当時下戸だった私はお茶だけで、生ビールか何かを飲んでいるさくらに向けて力説した。
 しかし同時に一方では、彼女の幾重にもなったギャグセンス(ほのぼのした馬鹿らしさ、それを冷静にツッコむ能力、狂気じみた世界観など)は『ちびまる子ちゃん』以外でも発揮出来るはずだと考えていた。

ぶっ飛んだ脱力

 なので、翌年だったか『ビッグコミックスピリッツ』の、信頼できる編集者にさくらを紹介し、そこで連載させてもらうことにした。その編集者は相原コージや吉田戦車といったギャグ漫画界のキラ星たちと仕事をしている人間だった。
 出来てきたのが『神のちから』である。筋はぶっ飛んでいるし、絵は脱力しているし、まさに神がかった漫画であった。予想をはるかに超えたくだらなさに腰が抜けそうになった。タガの外れ方が尋常ではなかった。やっぱりこいつは天才だ。
 同じ頃、私が所属していたギャグ集団ラジカル・ガジベリビンバ・システムの舞台用パンフにエッセイを寄稿してもらうことにもなった。たぶんあれが初エッセイなのではないか。言い出したのはまた別の編集者、故川勝正幸だったように思う。そもそも『ちびまる子ちゃん』の中であらゆるものを等距離に見て「○○であった」などと呆(あき)れた感じを出しているのは、名随筆に不可欠な視点である。

いわば神の視点

 したがって『もものかんづめ』などで自分の周囲の小さな事象を、筆の力で淡々と七転八倒の笑いへといざなっていくのは元々のさくらの資質から来ている。自分を笑うし、家族を笑うし、同じ態度で他人を笑う。いわば神の視点で神が自らの水虫について語るような、価値のさっぱりした転倒だ。それはどこか落語の語りにも似ていて、自然主義文学の発生に三遊亭円朝の語り口が寄与している事実を思い出させる。実際、さくらは落語好きだった。
 こうして「さくら、さくら」と書いていると、なんだか寅さんが妹を呼んでいるみたいだが、事実私は彼女をそう呼んでいたし、ニュアンスもそんな親近感だったので仕方がない。
 今から考えて私が最後に驚かされたのは、しばらく音信不通だった彼女が黙って送ってきた『ちびしかくちゃん』だ。これは『グランドジャンプ』に連載されていたものらしく、一年ほど前にまとまって出版された。
 そこではまる子ちゃんの顔が四角くなっている。いつものキャラクターたちもみなどこかが違う。例えば、優しいたまちゃんはここでは「だまちゃん」と呼ばれ、いじめっ子だ。お母さんも娘をかばってくれない。「ちびしかくちゃん」は机の下に身を隠してじっと耐える。
 自己パロディという過激なギャグ。だが、それだけではない。実際の世界の厳しさがそこに描かれている。ちびしかくちゃんと共にあろうとする作者は、しかし愛情を押しつけることなくまた淡々としている。
 その客観性が心にしみる。=朝日新聞2018年9月29日掲載