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良質のコメディには優しさがある 塩田武士さんが高校1年で出会った映画「Shall we ダンス?」

 その映画を観たのは、関西にある小さな劇場だった。高校一年生の冬。学校帰りの私は、分厚いセーターを着込んで膨れ上がった学ラン姿で、劇場窓口の前に立った。今も昔も映画を観るときは一人だ。
 洋画は字幕を読むのが面倒だった。ただ邦画というだけで、私は「Shall we ダンス?」の学割チケットを買った。
 その場で選んだ作品だ。予備知識などなかったが、コメディ映画であることは何となく察した。観客席は疎らで、これといって期待もしていなかった。だが、上映が始まってすぐに、私は日常を忘れた。

 優しい妻と生意気盛りのかわいい娘がいて、戸建てのマイホームを手にした杉山。決まった時間に出勤して、帰宅する。そんな判で押したような生活にも不満はなかった、はずだった。しかし、ある日彼は帰りの電車の中で見てしまうのだ。ダンス教室の窓から外の景色を眺めている女性——舞の物憂げで美しい横顔を。ほのかな恋心を抱いた杉山は、家族にも会社にも内緒で社交ダンスを習う決心をする。
 今から二十三年前。周囲にパソコンを持っている人が少なかった時代のジェンダー意識をナメてはいけない。「いい年をした男が社交ダンスを始めること」にどれだけ高い壁があったことか。会社や居酒屋で肩身の狭い思いをし、ダンスの話をするときは決まって小声になる。
 ダンス教室の仲間は“粒ぞろい”だ。初心者グループでともにレッスンを受ける中年男二人組に口うるさいおばさん豊子、そして、会社の同僚である青木。初めは舞目当てで教室に通っていた杉山だったが、次第に社交ダンスの虜になっていく。

 ストーリーのもう一本の主軸は、杉山の家族である。夫の浮気を疑った妻は、探偵に調査を依頼するが、女性ではなくダンスに夢中になっている夫に却って混乱する。うまいのはこの探偵も社交ダンスにハマっていき、黒子になって杉山家の後方支援をする点だ。
 登場人物は皆温かく、カーチェイスも爆破もないのに引き込まれてしまう。それが可能なのは、料理で言うところの下ごしらえが完璧に施されているからだろう。平坦とも思える筋書きの細かな隙間に、笑いと優しさが詰まっている。派手な展開や奇抜なアイデアなどなくても、真摯にテーマと向き合い、丁寧に描写していけば人の胸を打つ物語が出来上がると学んだ。
 配役も見事だった。冴えない中にチラりとダンディズムを見せる杉山役の役所広司さん、舞を演じる草刈民代さんの佇まいの美しさには息を呑む。そしてこの映画に魔力を宿したのは、青木演じる竹中直人さんの怪演である。劇場で観客(疎らではあったが)とともに笑える快感は、十六歳だった私には忘れがたい体験となった。
 口うるさい豊子とペアを組み、ダンス競技会に出場した杉山はアクシデントに見舞われてしまう。ここからの終盤の流れは、グッと胸に迫る仕掛けがいくつも用意されていて、スクリーンに「The End」の文字が浮かんだときには胸がいっぱいになっていた。場内が明るくなった後もしばらく、私はその場に座って作品の余韻に浸った。

 劇場を出ると夜になっていた。近くのショッピングセンターの灯りがまぶしく、私は光に吸い寄せられる羽虫のように、ファストフード店に入った。ネットのない時代のこと。
 私は溢れそうな感情を吐き出したくて、ルーズリーフに拙い感想を書きつけた。そして「良質のコメディには優しさがある」と記した後、強く誓った。「エンターテインメントの世界で生きていこう」と。
 私が将棋界を舞台にしたエンタメ小説でデビューしたのは、それから十五年後のことだった。