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これからも「スーパーハードモード」設定の人生 乙武洋匡さん、小説「車輪の上」執筆で再始動

文:大嶋辰男、写真:有村蓮

ホストクラブを舞台にした小説で再スタート

――『車輪の上』は、車いすに乗った障害者の青年が、ひょんなきっかけからホストの世界に入り、悪戦苦闘していく小説です。なぜ復活第1作が小説だったのですか?

 あの騒動があってから、仕事もなくなり、離婚もし、1年ほど海外を旅していました。帰国後、ものを書くことから再スタートしようと思いましたが、『五体不満足』のようなエッセイだと、どうしても自分のいまの生活や近況を書くことになる。あれだけ世間を騒がせてしまったのですから、あの件についても触れざるをえなくなります。実際に、執筆依頼もきていましたが、ほとんどがあの騒動について書いてくれというものでした。でも、それではまた私以外の人を巻き込むことになる。フィクションならそのあたりを気にせず、物が書けるんじゃないか、と思いました。

――舞台がホストクラブというのは?

 20代後半の頃、ホストをしている友人と知り合い、彼が経営するホストクラブをよく訪れていたんです。そこで、いろいろなホストの方たちとお話しする機会がありました。世間ではホストっていうと華々しい世界に生きているイメージがありますが、彼らの話を聞いてみると、壮絶な環境で育った人たちが多かった。家庭が複雑で「いまのお父さんは4人目のお父さんなんです」という人もいれば、是枝裕和監督の映画ではないけど、「家が貧乏で万引きしながら生きてきました」という人もいた。重たいものを背負いながら夜の世界で必死に生きている彼らが、私の中でなぜか、いとおしかったんです。

――ホストたちの心理描写がリアルです。ホストをした経験があるんですか?

 年に1回、友人の誕生日に手伝いに行く機会がありました。ホストの人気って容姿だけで決まるわけじゃないんです。ホストクラブに来る常連客のお客さんたちもまた、つらい経験があったり、悲しい思いをしたりと、いろいろな人生経験を持っている。そういう方たちは、イケメンにちやほやされたいという欲求だけでなく、やはり話を聞いてもらいたいという欲求が強くある。私も若いホストの子たちや同世代と比べれば様々な経験をしてきましたから、そういったあたりが重宝がられたのだと思います。

下駄をはかされ続け、その下駄でひっぱたかれる

――『五体不満足』の中の乙武さんは明るくポジティブで、障害を感じさせない障害者として登場していました。一方、『車輪の上』の主人公は、障害者であることの悩みや苦しみ、葛藤、怒り、困惑をこれでもかというくらいぶちまけながら、激しい競争世界でもがきながら生きています。どちらが素顔の乙武さんなのでしょう?

 『五体不満足』でも書いたように、私自身は、大学を卒業するまで、家族や周囲の人たちにも恵まれて、障害者であるが故の困難をあまり感じることなく生きてくることができました。つくづく稀有な環境で育ってきたなと思いますね。

 自分が障害者であることを認識させられたのは、むしろ大学を卒業して社会に出てからです。『五体不満足』がベストセラーになったことで、自分の行動範囲がぐんと広がり、様々なことを体験させていただきました。でも、実際には考えさせられることが多い日々でしたね。友人や仕事先の方と食事に行くにしても階段だらけだし、出張の行程を組むのも入念な下調べが必要になる上、時間的なロスを強いられることも多い。ネットを見れば、差別や偏見に満ちたコメントが散見される。

 一番しんどかったのは、何をやっても「障害者」というバイアスで評価されることでしょうか。『五体不満足』が出た当初は「障害者なのにすごい」と必要以上に持ち上げられ、いざプライベートなことで叩かれ始めると、今度は「障害者のくせに」となる。下駄をはかされ続けてきたと思ったら、今度はその下駄でひっぱたかれる。その毀誉褒貶の激しさは私自身のパーソナリティもあるでしょうが、やはり「障害者」という境遇が大きく影響しているように思います。

――スポーツライター、小学校の先生、東京都教育委員、テレビのコメンテーター……職業や肩書も転々としました。本当は何がしたかったのでしょうか。

 いろいろやっているように見えても、私の中で軸はブレていないつもりなんです。同質性が重視されるこの日本社会に多様性をもたらしたい。そのために何をしたらいいのかと暗中模索しながら、その時々でベストだと思えるアプローチをしてきた結果だと思います。そういう意味では、今回の小説もその延長線上にあると言えるのかもしれません。

 もう一つは、できるだけ多くの山に旗を立てておきたいという気持ちがありました。現状ではどんなに能力があっても障害者というだけで門前払いをされてしまい、夢への扉を開くことができないという人が多くいる。だったら、私ができるだけその可能性を押し広げていきたい。後世の人に「昔、乙武という車椅子の人がやってたから、あなたにも能力と熱意があればできるかもね」と言ってもらえるような状況にしておきたいなと。

自分で自分を「いい気味だ」と突き放す

――そうは言っても、やっぱり、乙武さんが時代を切り開いた功績は大きいと思いますよ。『五体不満足』で、あなたが普通の大学生として明るく生きている姿を知って、健常者は自分たちがいかに不自由なものの見方をしていたのか、を知りました。

 担当編集者の方とよく話すのは、あの本があれだけ多くの方に受け入れていただいたのはタイミングもあったのだろうな、と。時代がもう少し早ければ「まだそんな社会状況じゃない」と見向きもされなかったかもしれないし、もう少し遅ければ「いまさらこんなこと言って」と流されていたかもしれない。ちょうど日本全体がバリアフリーという課題に向き合っていかなければならない、そういう時期に差しかかっていたのかなと思います。

――大げさかもしれませんが、多様な生き方を尊重するダイバーシティーという考え方も、『五体不満足』から始まったような気がします。

 5年前くらい前の話ですが、あるイベントに参加した時、車いすに乗った障害者の青年に直筆の手紙を渡されたことがあったんです。その方は脳性麻痺でしたが、手紙にはこう書いてありました。「乙武さんはずっと目標とする存在でした。僕だって頑張れば、将来はいいモン食べて、いい車に乗って、いいオンナを抱いて……という生活ができるようになるかもしれない。そんな夢を抱いて上京してきました」って。もうロックスターの世界ですよね(苦笑)。出版当初から、障害当事者やそのご家族からは「お前は恵まれているだけ」「障害者としての本当の苦労をわかっていない」との批判も多くいただいてきたので、この手紙は本当に嬉しかったですね。

――時代が人を求めるといいます。乙武さんも時代に求められて世に出たのでしょう。ところで、話を変えたいと思います。2年前、政治の世界に飛び込もうとしていた矢先に、妻以外の女性と交際していたことが報道され、世間からバッシングを受けました。あのときのことはどう思っていますか?

 報道された件は、まったく身から出たサビで、私自身の弱さ、未熟さによるところだと反省しています。周囲の方々にも迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ないことをしました。自分の中でも思い上がったり、気が緩んでいた部分もあったのだと思います。いまも自分で自分のことを「いい気味だ」と突き放して考えることもあります。

障害者もフルスウィングで叩かれる時代になった

――当時はネットでもかなり叩かれました。乙武さんの障害にひっかけた誹謗・中傷も少なくなく、時代が逆戻りした感じもしましたが、ご本人はどう受け止めていたのでしょう。

 半分半分でしたね。私の件に限らず、溺れる犬を、これでもかと棒で叩く風潮を冷めた思いで見つめる自分が半分。残る半分は「こうして障害者でもフルスウィングで叩かれる時代になったのか」というポジティブな気持ちです。『五体不満足』を出版した20年前は、障害者は「弱い存在」「かわいそうな存在」でしたから、表立って障害者を批判したり、中傷することははばかられていたと思います。バッシングされた側の私が言うのもおかしな話ですが、そういう意味では時計の針は進んだのかなと。

――「清く貧しく」ではありませんが、世間は立場が弱いと思われる人により強く道徳や倫理を求めるのかなという気もしましたが。

 健常者にも立派な人がいれば、だらしない人もいるように、障害者にも立派な人もいれば、だらしない人もいる。いや、もっと言うならば、健常者だろうが障害者だろうが、一人の人間のなかにいろいろな要素が混在しているはずです。ところが、障害者だとそこを忘れられがちで、つねに清らかな存在だと思われてしまう。まあ、私の場合は学校の教科書にも載っているくらいなので余計にかもしれませんが。

 「障害者なのに」「LGBTなのに」「貧しいのに」「高齢者なのに」「女性なのに」「男性なのに」……人をカテゴライズしたり、レッテルを貼ったりする社会では、だれもがそんな批判や中傷の対象になるように思いますし、その行為の無意味さを描いたのが今回の小説です。

――一方、自分で自分の偶像を壊してしまったことで、楽になった面もありませんか。完璧な人はいない。「オトタケさん」だっていい面も悪い面もある生身の人間だ、と知ってもらえたことはマイナスな面ばかりではないようにも思えますが……。

 正直にいうと、少しほっとした気持ちもあります。私は清廉潔白でも品行方正でもないし、だらしない点や至らない点もたくさんあります。メディアに出るにあたり、一人の人間としてそういうダメな自分もなるべく出していきたいと思っていたのですが、『五体不満足』の影響があまりに大きすぎたのか、等身大の自分を出そうと、そういうことを話してもすべてカットされてしまう。当初はそういうことに反発や疑問も覚えましたが、いちいち反発するのも面倒くさくなって「だったら、みなさんが求める“乙武さん”として振る舞うしかないか」と周囲のイメージに合わせていた部分はありましたね。

一日一日を丁寧に生きていく、それだけ

――しばらくお見かけしませんでした。海外を旅していたそうですね。 

 いったん、いろいろなものを断ち切った環境に身をおいて、自分のことをリセットしたいなと思ったんです。今年の春に帰国するまで約1年かけて、37か国・地域を回りました。最初はパラリンピックを史上最も成功させたと言われているロンドンに飛んで、当時の関係者にお話を聞きました。結局、ヨーロッパには5か月くらいいましたが、彼らのライフスタイルを知り、ワークライフバランスなどを肌で感じることができたことも大きな収穫でしたね。

――日本に帰らず、海外に移住しようかなと思ったこともあるそうですね。

 オーストラリア第2の都市と言われるメルボルンは世界で最も住みやすい街としても知られている都市なんです。街並みも美しいし、美術館やスポーツ施設も多くあって文化的。バリアフリーも進んでいました。アジア人も多く住んでいて、人種間ヒエラルキーを感じることもない。日本とほとんど時差がないというのも魅力的でした。1か月半ほど滞在したのですが、最初の2週間ですっかり気に入ってしまい、ここなら住んでもいいなあと。

――それでも帰国したのは?

 3週目あたりから次第に物足りなく思えてきてしまったんですよね。自分の人生が寿命通り80余年だとするなら、あと40年以上もこの街で何不自由ない生活を送るのかと。そう思ったら、なんだか退屈に思えてしまって。生まれた瞬間から「スーパーハードモード」設定の人生を歩んできたせいなのかな。自分でもバカだなあと思うのですが、やっぱりイバラの道だとわかっていても「やりがい」というか、自分にしかできないことが待ち受けている環境で生きていきたいと思ったんですよね。

――『五体不満足』の出版から20年。これから何をしますか。

 この20年、私が見据えてきたのは、どんな境遇に生まれても、同じだけのチャンスや選択肢が与えられる社会の実現です。どうしても、そうした社会にしていきたい。だからこそ、これまで避けてきた政治という道を選ぼうともしました。あの騒動で多くの方から厳しいお叱りの声をいただき、政治への道は閉ざされてしまいましたが、それでもそうした社会を実現したいとの思いだけは変わることがありませんでした。メルボルンのヤラ川にポイッと捨ててくることができていれば、どんなにかラクだっただろうと思いますけどね。でも、変わらない以上は仕方ない。いま自分が置かれた立場の中で何ができるのかを考え、一日一日を丁寧に生きていく。それだけです。

――もう一度、政治を目指しますか?

 もう私に期待をする人などいませんから……。世間の風の厳しさは自分が一番よくわかっているつもりです。

(インタビューを終えて)

 『車輪の上』のラストシーン。車いすの主人公は別れた女性にホストをやめるとメッセージを送る。主人公はこう書いた。「来月から新しい仕事を始めます。障害者もやめました、というわけにはいかないけれど、障害にこだわる生き方からは卒業できそう。」。乙武さんの今後の活躍を信じたい。

 最後に、インタビューの席で『五体不満足』の編集を担当した講談社の名編集者、小沢一郎さんが今年、定年を迎えることを知った。社会に大きな一石を投じた〝偉業〟にあらためて敬意を表するとともに、小沢さんの新たな旅立ちにもエールを送りたい。

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