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大学生がススメる「本屋大賞受賞作家」の本

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「SOSの猿」(伊坂幸太郎、中公文庫)

 小説、『SOSの猿』を読んだ私は、正義とはなんなのか、悪とはなんなのか、それが分からなくなっていた。正確に言えば、我々人間が引き起こす、または意図せずとも引き起こしてしまうアクションの、どこまでが正しくて、どこまでが正しくはない、ということになってしまうのか、その辺りの概念がひどく曖昧なものとなってしまっていたのだ。そして、それこそが伊坂幸太郎の狙いであり、私は、小説を読んでいる時も、そして今も、彼の手のひらの上をぐるぐると回り続けているのである。

 『SOSの猿』は、ある二人の男の話を主軸としている。一人は、引きこもりとなってしまった知り合いの息子を渋々救おうとするもぐりのエクソシスト、遠藤二郎。もう一人は、被害総額三百億円を叩き出した株の誤発注事件の原因調査を命じられた男、五十嵐真。さらには、母娘監禁虐待事件や、かの斉天大聖孫悟空も絡んでくる。このちぐはぐな、ともすれば、ぐちゃぐちゃとも表現できるような設定と、その活かし方もこの作品の魅力ではあるが、あえてここで深く触れるのは遠慮しておくことにしよう。

 さて、今一度はっきりさせておきたい。私がここで論じるのは、この物語が描く「善悪の曖昧さ」である。たとえば、この小説の中では、ある交通事故が描かれている。深夜、道路に飛び出してきたコンビニ店員を婦人が轢き殺してしまう。彼女は子供もいる身で仕事もクビになり、借金をし、借金取りから脅されている。遠藤二郎は被害者が務めていたコンビニの店長からこの話を聞いた時、思わず「災難でしたね」という。そして「どっちがだ」と店長は言い返す。確かに、考えてみればどっちが災難なのか、ひどく曖昧だ。道路に飛び出してきた男を轢き殺したせいで生活を失った婦人か。止まれなかった車に轢かれたせいで命を失った男か。災難なのはどちらか。悪いのはどちらなのか。だれもが頷ける、明確な答えはきっとないだろう。

 作中、孫悟空が遠藤に、暴力とは悪かと問いかける場面がある。むやみにではなく、そうしなければならない状況で振るう暴力は悪なのかと。ここで私は完全に分からなくなってしまった。この世の中には完全なる悪行も善行もありはしない。しかし、人間は人間の行いに腹を立てる。それが悪行であるという証明もないのに、腹を立て、懲らしめてやろうと考える。それは、ともすれば殺してやろう、という殺意にもなりえる危険な思想だが、もしそこで相手を害してしまったならば、それは悪行なのだろうか。もし、そこでなにもせず、静観することで、その者が他の誰かに害を及ぼしたとしても、なにもしてはいけないのだろうか。善悪とは、その境界線とは、果たしてどこにあるのか。私は、それを見失った。そして、ぐるぐると飛び回る私に、遠藤二郎が、五十嵐真が、伊坂幸太郎が、孫悟空が問いかける。「本当に悪いのは誰?」=「週刊読書人」2017年10月20日掲載

『サマータイム』(佐藤多佳子、新潮文庫)

 小学生の頃の夏は、強烈に〈夏〉だった。朝はやく起きて、目をこすりながらラジオ体操に行き、何をして遊ぶかサイダー片手に真剣に考えた。大学生になった今では、目もくらむような眩しい八月の太陽も、プール上がりの濡れた髪から漂う塩素の匂いも、自転車のペダルを踏むたびに風を受けて膨らむTシャツも、もう失われて、セピア色だ。そう思っていた。この本に出会うまでは。

 この本は素直で気持ちの優しい弟「進」と美人だがワガママな姉「佳奈」と、大人びた片腕の少年「広一」を中心とした四作の連作短編集だ。それらすべてに共通してピアノが登場する。表題作の「サマータイム」もジャズのスタンダード・ナンバーである。

 十一歳の八月、進はどしゃ降りのプールで、事故で父親と片腕を失った二つ年上の少年、広一に出会う。雨はいつしかめちゃくちゃな雷雨になり、広一は進を家に誘う。そこで進が目にしたのは、デカくて黒くて、ピカピカのグランド・ピアノだった。ジャズ・ピアニストの母を持つ広一の、右手だけで鮮やかに奏でられるサマータイムは、進の耳に、心に、強く響いた。

 難しい漢字は一切使われていない。軽やかでリズミカルな文章。しかし、するすると頭に入ってくるからといって油断していては、あまりにも瑞々しく鮮やかな描写にガツンとやられるに違いない。

 《スプーンの上のゼリーは、まるで透きとおった色ガラスのかけらのようなんだ! ひと口めは、南の海の波、きらきらしたブルー。ふた口めは、海草の色、謎めいたグリーン。み口めは、深い冷たい水底の色、青緑。

 いつかどこかで見た、一番美しい海の風景を、ぼくらは思い浮かべていた。はだにひりりと痛い日差し、熱いにおいの夏の風。佳奈も広一くんも、そんなイメージを追うかのように、ちょっとうっとりした遠いまなざしでボールのゼリーをすくっていた。》

 この文章を読んでいると、私の頭の中でも、いつかの海が波音を立てる。かぶり忘れた帽子と、じりじりと焼ける首の後ろ。鮮烈なフラッシュバック。そこには確かに色があった。セピア色になったと思っていた感覚が、瑞々しい色を伴って思い起こされる。きらきらしたブルー、謎めいたグリーン。不思議な感覚だ。これを読んでいる瞬間、私は確かに思春期の多感な少女のひとりだった。

 そして表題作「サマータイム」の中で、終始一貫して流れるジャズ・ピアノ「サマータイム」。
《広一くんは、また鍵盤をたたきだした。ぼくは、しだいにその曲を覚えていった。胸にしみる感じがした。聴いたことがないほど悲しくてきれいなメロディーだ。

 なぜか、午後の海を思い出した。どこにでもある、少し灰色がかった青い海。いいかげん泳ぎ疲れて、あおむけに浮かんでいると、広い空が白くまぶしく、波に揺られていつのまにかほのぼのと眠くなってくる。幸せな感じ。なのに、ちょっと悲しい。》

 もともとは子守歌だというサマータイムの、どこかもの悲しいメロディーが、この小説をすっかり包み込み、私たちのノスタルジーをかき立てる。

 今の私は、本棚に夏をしまっている。いつかの夏に戻れなくとも、小説の「サマータイム」と、ピアノの「サマータイム」。これさえあれば、いつでも私はあの夏を思い出せる。=「週刊読書人」2017年7月7日掲載

『蜜蜂と遠雷』(恩田陸、幻冬舎)

 閉じた本には29枚の付箋が挟まれている。長めのブルー。気持ちを揺さぶられた言葉、涙を滲ませた音楽、そして心に刻み付けたいと願う情景。本から突き出した付箋が鍵盤のように物語を奏でる。

 舞台は世界中の優れた若いピアニストの登竜門である、芳ケ江国際ピアノコンクール。第一次、二次、三次予選、本選がある。無名の16歳、風間塵。母の死後、表舞台から姿を消した栄伝亜夜、20歳。ジュリアード音楽院の天才といわれるマサルは19歳。楽器店に勤める高島明石は28歳。その4人のコンテスタントの才能、夢、運命、音楽、自然、葛藤、挫折がピアノの音とともに描かれる青春小説である。この本は、絶対に読みたいと思った。

 私もこの春に二十歳。小さい時からバレエやピアノに親しみ、高校も音楽科。今は音楽学部で声楽を専攻している。当然のように彼らの人生と重ねてしまう。

 実は、そこまでに読んでいたのは先生から借りた本だった。読む喜びが、私の中でぐるぐると動き回り始める。堪らなくなって、電車を降り、書店に走った。定価1800円。アルバイトの時給にすれば2時間分と考えてしまったことが恥ずかしくなった。私だけの本。もう気にすることはない。付箋が貼れる。その数が増えてくる。登場した曲を音楽サイトで聞きながら繰り返し読んだ。楽しくて仕方がない。

 付箋は二次予選と三次予選に21枚と集中している。その一枚。マサルの演奏は、フランツ・リストの大曲「ピアノ・ソナタ ロ短調」だ。この曲を耳にして読み始める。主役は音楽なのだろうか。本なのだろうか。どちらからの情報も同じ力でぶつかり合う。圧倒されるようなピアノの響き。甘く切ないフレーズ。もっとこのページに留まっていたい。曲が終わってしまうのが寂しい。このような体験をしたのは初めてだった。

 「どうすれば、この音楽を広いところに連れ出せるでしょうか」。塵は亡き恩師と交わした約束に悩むが、ようやく決意が生まれる。初めは棄権すら考えていた亜夜の賭け。天才といわれる彼らはライバルであるはずなのに、お互いを必要とし、影響し合い、成長していく。誰が一位になるのか。

 亜夜によるショパンが始まった。

 「ショパンのバラードには、幼い頃の感情、わらべうたを歌う時に感じる、遺伝子に刷り込まれたさみしさが含まれているような気がする」

 自然と身体が動き出した。踊るために作られた音楽ではないはずなのに。月明かりの下、私は舞い始める。そして一人の若者と出会う。惹かれる二人のユニゾン。幸せに満ち溢れふわりと宙を漂うリフト。しかし時が過ぎると触れ合う指が離れていく…。亜夜の弾く曲を聞いて涙が溢れてくる。「踊りたい。音楽が愛おしい」。そんな感覚が襲った。

 『蜜蜂と遠雷』は言葉と音楽だけの物語なのだろうか。そうではない。私はステップを踏んだ。間違いなくもう一つの世界に導かれたのだ。

 私が貼った小さな紙片。その1枚1枚、人はどのように感じ何を思うのか。確かめてみたい。=「週刊読書人」2017年5月5日掲載

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