小説を書くようになってから、感情を咀嚼(そしゃく)する癖がついた。ショックを受けたとき、不安になったとき――特にマイナスの方向へ振れたとき、何によって感情が動かされたのかを延々と考える。そこで浮かび上がってくるの
は主に自分のウィークポイントだが、なぜかその作業は、美味(おい)しい食べ物に感動したとき、それがどんな材料でどんなふうに作られているのかを探っていく作業に似ている。
その類似点に気づいたのは、最近、感情を揺さぶられながら美味しいものを食べる機会があったからだ。
それは、ある文学賞の待ち会でのことである。待ち会とは、その名の通り、選考結果を待つ会だ。受賞作が決定すると受賞者はすぐに記者会見会場に移動しなくてはならないため、近隣で担当編集者と待機するのだ。
だが、当然落選することもあるわけで、その場合、待ち会はそのまま残念会に変わる。この、残念会に切り替わるかどうかが決まる瞬間が、待ち会のハイライトだ。それまで和やかに雑談をしていたのが、電話がかかってきた途端に空気
が張り詰める。
私の場合、電話先から聞こえてきたのは、「今回は残念ですが」という言葉だった。一瞬、頭が真っ白になる。だが、次の瞬間に浮かんだのは、悲しいとか悔しいとかよりも、電話を切ったらこの場にいる人たちにどういうふうに報告し
ようという考えだった。
ひとまず電話の相手に「どなたが受賞されたんですか?」と尋ねることでまわりにも落選を伝えると、張り詰めていた空気が急速にしぼんでいくのを感じた。できるだけゆっくりと電話を切って、一拍置いてから結果を告げる。編集者た
ちは、ほとんど間をおかず、次々にフォローを口にしてくれた。その言葉の内容よりも勢いに励まされながら、目の前のケーキに手を伸ばす。会の直前に買ってきた、大好物のエコール・クリオロのケーキだ。
艶(あで)やかな薄茶色のムースを口に運ぶと、キャラメルの香ばしさと甘さがふわっと広がる。こんなときでも、やっぱり美味しい。続けてもう一口。ザクッと予想外の歯応えがあり、ハッと見おろすとフレーク状の何かが目に飛び込
んでくる。これは何だろう。もう一口食べながら、そう言えば、今日私がケーキを買ってきたとき、みんなすごくはしゃいでじゃんけん大会をしてくれたな、と思い出す。勝った人は大きくガッツポーズをし、負けた人は声を出して嘆いて
いた。だけど、きっと本当はそこまで本気で欲しかったわけでもなかったのだろう。
その優しさに癒やされているうちに、やっと、悔しいという感情が湧く。そんな自分の感情の動きを咀嚼しながら、また一口、ケーキを口に運ぶ。=朝日新聞2018年10月20日掲載
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