1. HOME
  2. インタビュー
  3. 「生産性」とは無縁の男の評伝 梯久美子さん「原民喜 死と愛と孤独の肖像」

「生産性」とは無縁の男の評伝 梯久美子さん「原民喜 死と愛と孤独の肖像」

文:志賀佳織、写真:尾嶝太

「生産性」はゼロだけれども 忘れられない何かを遺した人生

──この本を手に取って、実は最初に「あとがき」を見ました。そうしたところ、若い頃、原民喜と親交があった遠藤周作がのちに自著の中で原について、「あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります」と書いていたとあって、強い衝撃を受けました。カトリック信者の遠藤がそこまでいう原民喜とは、どんな人物だったのかと。そして、なぜ梯さんが今、この人を取り上げられたのかをお聞きしたいと思ったんです。

 そうですよね。原は生前も、文学者としてはある程度評価されてはいましたが、生涯出した本は2冊だけで、そのうち1冊は自費出版みたいなもの。広島の実家はお金持ちで、東京の大学を8年かかって親がかりで出て、結婚してからも仕送りをもらっている。仕事はといえば、学校の先生を非常勤で少しやっただけ。世のため、人のために何かしているかというと、生きている間、特に何もしていないんです。今の価値観でいうと、生産性という意味ではほぼゼロですし、立派な人という感じでもない。でも、何か私は心惹かれるものがあったんですね。

――それは、どういうところにでしょうか。

 遠藤も書いていますが、原は不器用で内向的で、世間的な意味では何の役にも立たない人だった。でも攻撃的だったり、ずるかったり、強い自己主張をしたりというところの全くない人でした。そういう生き方が周りの人に感動を与え、忘れられないものを遺したのだと思うんです。

 人間って、別に生産のために生きているわけではありませんし、もっと言ってしまうと、世のため人のために生きているわけでもない。今ある環境の中で、できる範囲で自分なりの生を精一杯まっとうすればそれでいいのではないかと私は思うんです。原のように、何も生み出さないけれども、生き方が清らかで美しくて、周りの人の心に忘れないものを遺すということは、すごく素敵な、そして稀有なことなんじゃないかと感じたんですね。派手な生き方ではないし、大きなトピックもない。だからこういう人のことを積極的に評伝に書いて残そうという人も、あまりいないのかなというのもありました。研究者や評論家が、作品中心に論じた評伝はいくつかあるんですけど、私は作品の評価云々よりも、こういう生き方をした人がいたということを伝えたくて書きました。

──直接のきっかけは原の遺書をご覧になったことだったそうですね。

 はい。私、仕事柄、手紙や日記などの直筆資料を取材でいっぱい見ているんですよね。その中でも遺書って、特に心打たれるものなんです。ただ、多くの遺書にはこの世に爪痕を残したいというか、自分はこんなふうに生きたんだ、ということを分かってほしいという意識が感じられるんです。

 でも、原に関しては、そういうところが全然ないんです。逆に、何も遺さずに消えていきたいという感じで、相手への御礼の言葉に尽きている。一人ひとりお世話になった人たちに、貧しい中から形見の品を遺し、感謝の遺書を認めて……。全部で19通の遺書を書いているんですが、文章に透明感があって、字も本当に端正です。遠藤は、原の死について「貴方の死は何てきれいなんだ」と書いていますが、「こういう人がいるんだ」と驚きました。

原民喜。広島市立中央図書館所蔵。

厳しくもロマンチックな文章が 時代を超えて息づいている

──遺された作品を読んでも、どれも声高に何かを主張するという感じではありません。

 奥さんが唯一の話し相手だったのが、終戦の前年に病気で亡くなってしまったので、それ以降は、奥さんに語りかけるように書いています。ですから、あまり広く世に訴えたいという感じでもない。原爆に関しては、自分の見たものを書き残さねばならないと思ったとは書いていますけれども、それでも政治的とか社会的、歴史的文脈においてということではなくて、もっと純粋な動機というんでしょうか。自分はものを書く人間だから、そのとき広島にいて見た以上は、自分の天命だと思って書き残すということであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 原爆体験を綴った代表作の『夏の花』は小説ですが、事実しか書いていないという意味では、ノンフィクションとして読むこともできます。ノンフィクションって、私もそうですけれども、今の世の中にこれを伝えたいとか、あるいは将来に書き残したいとか、そうした自覚をもって書かれるものですよね。でも、『夏の花』には、それも感じられない。

 何度も読むと、叙事詩のような感じもします。原は、やはり本質的には詩人なのでしょう。詩は長く命を保つものですから、それが作品が古びないひとつの理由でもあると思います。決して抽象的な小説ではなく、具体的なものを書いているのに、時代性に寄りかかってもいない。それはもともとの資質と、文章の鍛錬が結実した結果でもあるのだと思います。

――文章の鍛錬、ですか。

 いい加減なこと、曖昧なことは書かないという、自分で鍛えたものすごく厳しい詩的言語が芯にはある、ということです。その一方で、『夏の花』以外の作品には、みずみずしい叙情性がある。私は、この叙情性というものが、すごく大事なことだと思っているんです。早世した妻のことを描いた小説や詩は、センチメンタルでロマンチックなところがある。甘いといえば甘いのですが、だからこそ伝わるものがあると思います。

遠藤周作(左)と原民喜。1948年頃、東京・九段付近にて。遠藤周作文学館所蔵。

悲しみを知る者同士だった 原民喜と遠藤周作

――家族の中でも特に慕っていた父親や姉を早くに亡くしたり、唯一心を許せる相手であった最愛の妻にも先立たれたりと、常にこの人には悲しみや寂しさがつきまとっていたような気がします。それが、遠藤が描くイエス像――立派な奇跡を起こした人ではなくて、ただ人々の悲しみとともにあろうとした――と重なるところがあるようにも感じられるのですが、二人が親しかったのは、互いにそうしたシンパシーを感じていたからなのでしょうか。

 そうですね。遠藤は後に『イエスの生涯』を書きますが、原のイメージが原型にあったということは言えると思うんです。ただ、原が原点で、原を見てそう思ったというのではなく、もともと、遠藤の中に、弱くて純粋なものに惹かれる、そういうものを求めたいという気持ちがすごくあったんだと思うんですよね。原も遠藤の陰の部分を理解していたんでしょう。

――戦後、原が遠藤と親しくつきあうようになってから、そこに祐子さんという若い女性が加わり、3人の親交が始まります。本にも書かれていますが、あるとき、遠藤が祐子さんを映画に誘う。けれども途中で突然「全てが阿呆らしくなって来た」遠藤は、待ち合わせの喫茶店から帰ろうとする。あの場面にはとても胸が詰まります。

 そうそう、そこへ心配した原が見に来るんですよね。「キミガ、アノヒトヲオイテキボリニスルダロウトオモッタカラ ミニキタンダ」と原が言ったと、そのときのことを遠藤が書き残していますが、一見、明るくて社交的な遠藤の中に、そういうすべてを虚しく感じるような悲しみがあることを、原は見抜いていたんでしょうね。それが若い女性を傷つけることを恐れた。「大丈夫だよ」と答えた遠藤に安心して原は帰るわけですが、そのときのことを遠藤はすごく覚えていて、原の後ろ姿を見ながら泣けてきたと言うんです。

 遠藤は、カトリックの幼児洗礼を受けたわけですが、ずっと体に合わない洋服を着せられているような違和感を覚えて、自分にとってのキリスト教とは何なのだろうということを考え続けた人でした。そして、行き着いたところが、すべてを赦し、すべてを受け止める「母なるもの」だったといわれています。イエスも、奇跡を起こした立派な人ではなく、みじめで、貧しくて、ただ人々の悲しみに寄り添おうとする人だったと彼はとらえた。それが、原と出会ったときに重なったのでしょう。だから、もうこの人から絶対離れないでおこうと思ったんだと思うんです。

――原民喜という人は、自身が悲しみを知る、その同じ気持ちで人の悲しみにも寄り添うことができる人だった、ということなんでしょうね。

 『原民喜全集』って、1巻、2巻、3巻、別巻とあって、別巻がすべて追悼文になっているんですけど、それが全部素晴らしいんです。私は元編集者なので、本を書くとき、引用部分が長すぎるのもどうかしらとかバランスをつい見てしまうんですけれども(笑)、周りのみんなが原をどう見ていたのかというのはすごく大事な気がして、またいいエピソードがたくさんあるので、なるべくたくさん引きました。それを紹介すれば、私が論じたり説明したりしなくても、原という人のことが伝わるだろうなとも思ったんです。今の時代に、原みたいな人がいたらどんなだろうと考えることはありますね。

原民喜の「被災手帳」。この手帳に、被爆直後の様子を書き留めた。朝日新聞社撮影

大きな何かに書かされる ノンフィクション

――そこまで人に慕われて、しかも原爆を体験した後「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」と自らに命じた原が、自死を選んだのはなぜなのでしょう。

 原がなぜ死を選んだのか、推測するしかなく、本当のところは分かりませんが、彼の晩年を見ていくと、ひとつには、もう生きて行く力が残ってなかったんじゃないかと思うんですよね。爆心地から1.2kmのところで被爆していますから、体調も本当に悪かったと思いますし、戦後は、体重も30キロ台まで落ちてしまっていました。あとは愛する人がみんな死んでしまって、死への親和性が高かったということもあったでしょう。でも絶望して亡くなったのかというと、そうでもないと思うんです。フランスに留学する遠藤や、英語を学びながらタイピストとして懸命に働く祐子さんを見て、若い人たちに希望を感じていたんじゃないかという気がします。

――二人に宛てた遺書に添えられた「悲歌」という詩からも、それが感じられますね。

 そうなんです。「私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに」とありますが、本当にああいう気持ちで死んでいけたらいいだろうなと思うような内容です。ギリギリまで苦しさに耐えて書くべきものを書き終えて、あとはのちの世を生きる人に希望を託してこの世を去ったと思いたいですね。

 この本の最後に、原の遺稿「死について」を引きましたが、そこにはこう書かれています。「まことに今日は不思議で稀れなる季節である。殆どその生存を壁際まで押しやられて、飢ゑながら焼跡を歩いてゐるとき、突然、目も眩むばかりの美しい幻想や静澄な雰囲気が微笑みかけてくるのは、私だけのことであらうか」。

 これが死を前にした原の偽らざる気持ちだったのではないでしょうか。そして、こうした絶望の中でも明るい何かが微笑みかけてくるような気がする体験というのは、どんな人生にもあるのではないか、そんなことを思わずにはいられません。

――梯さんの著作で取り上げられる人物は、いつも時空を超えてすごく身近に感じられます。どういう基準でテーマを選ばれているのでしょうか。

 もうそれは、単に好きな人ですね(笑)。でもね、時代の流れみたいなものに知らずに押されているということもあると思います。たとえば、原民喜にしても、ここ数年の間に小さな出版社から『幼年画』という作品集や、『原民喜童話集』が出ています。私はそんな動きがあると知らずに取材を始めているんです。「今、この人の作品を読んでほしい!」という思いを持つ出版社がいくつもあって、それが流れのようになっているというのは、そこにはなにか必然のようなものがあるのではないかと思います。

 今回の場合は、世の中の人たちが、ここらへんでもう1回、生きることと死ぬことを見直してみようという時期になっているのではないか、と。そんなときにちょうど、「生産性」云々の話も出てきたりして、いや、人間が生きるということは、そうした生産性を上げるためとか、何かに貢献するためとか、お金を稼ぐため、子どもをつくるため、そういうことじゃないんじゃないかと考える人たちが現れてきた。自分の生をふつうにまっとうすれば、それはじゅうぶんに美しく価値のある人生だということを、今改めてみんな気がついているんだと思うんです。原民喜は、そうした中で、今、注目されているのではないでしょうか。

 ものを書く人間というのは、選んだ題材を自分で思いついたと思っているんですけれども、実は大きな何かに動かされている面もある気がするんです。それはスピリチュアルな意味とかではなくて、どんなテーマも個人の思いつきのみで書くのではないということです。この本についても、今、原民喜が読まれるべき人で、たまたま私がそれを書きやすい状況にいて、大きな流れの中で書かされた……と言ったらいいでしょうか。自分にとって手応えのあるものになった作品ほど、不思議と自分の力で書いたという感じがあまりしないんです。