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独立研究者・森田真生さんインタビュー 絵本「アリになった数学者」

文:北林のぶお、写真:斉藤順子

アリになることで、自分が何者かがわかる

――初めての絵本。ふだん書かれる文章との違いはありましたか?

 僕自身も絵本のつくり方を全然知らなかったのですが、いきなり絵本のテキストを書くわけじゃないんですね。まずは絵を描いてもらうための文章を、いつもの原稿と同じように書くということで。

 数学者の岡潔(1901-1978)も住んでいた和歌山県の紀見峠に行って、1万字ほどのテクストを書くために、宿に引きこもっていました。山の中で、夜は真っ暗闇。パンを部屋の隅に置いて、手足を使わず這いまわりながら、アゴだけ使ってパンを食べたりしながら、アリの気持ちを理解しようとしました。

――タイトルの通り、本当にアリになりきったんですか! 何か発見はありましたか?

 アリには数がわからないのではないか、というのが最初の想定だったんです。「2」や「3」があるから「1」の意味がありますが、アリはアゴで1個ずつ確かめるしかないから、「1」は意味がないと思っていたんですけど。彼らの気持ちになっていくうちに、僕はアリを見下していたなと(笑)。アリは雨が降っても逃げ遅れなかったりして、人間が天気予報でコンピュータを使うよりもはるかに高度なことをやっているんじゃないかと思い始めました。

 あるとき、夢を見ました。アリが水滴を持って「これは1なんだ!」と気づく。つまり、アリが「1」の概念を発見してしまうんです。アリは周りの仲間に伝えようとしますが、「それは雨だよ」「海だよ」「川だよ」と言われ、全然わかってもらえない。でも、体に抱えると「1」なのです。そんなもどかしいアリの夢を見て、今回の絵本のプロットが広がっていきました。

――液体である水滴を、アリだと「1」として体で感じられるのが面白いですね。

 以前に物理学者の友人と、水滴は人間が触れるとすぐ割れてしまうけど、アリが乗っても割れないという、表面張力の話をしたことがありました。検索すると、アリが水滴を持っているようなキレイな写真を見つけて。人間は一粒のしずくを持つことはできないけど、アリは全身で感じられるというのはすごいことです。

 自分が何者かをわかるためには、自分じゃないものにならなきゃいけない、という矛盾が、学問の根本にはあります。アリになることで、アリのことがわかるわけでは必ずしもない。アリになることで、自分が何者だったかということがわかる。それはすごく面白いなと思うんです。

「1とは何か」を誰もちゃんとわかっていない

――15ページの背景にある数式が気になったのですが、何を意味しているのですか?

 これは僕がふだん使っているノートに書いたものです。ラッセルとホワイトヘッドが著した『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の第1巻で、「1+1=2」であることを証明した箇所になります。約700頁にわたる議論があって、この後に「1+1=2」という定理が“時折有用である”という脚注があるのがシュールで面白いですね。

――この絵本の全体を通じたテーマに近いものがありますね。

 「1とは何か」というのが主題になっているんですけど、1884年にフレーゲという数学者が書いた『算術の基礎』という本でも、冒頭の一文が「数1とは何か」という問いかけなんですよ。彼は、当時の数学者や哲学者が「1とは何か」ということに対して誰一人満足に答えられないのは恥ずべきことだと言っていて。そこで彼が始めた探究の延長線上に、先ほどの証明があるんです。

――つまり「1」をテーマにして子ども伝えようと思ったのですか?

 いいえ、「1とは何か」ということは、伝えられることじゃないんです。僕がわかっていたら伝えられるけど、誰もちゃんとわかっていない。だから、「1とは何か」というのは、とても難しい問いなんですね。それを考えている現場がこの本であるわけです。僕は全国で講演するときも、わかったことを伝えているのではなくて、わからないことを考えて分かちあうという形でやっています。

 だから、「1とは何か」という問いを僕が考えた絵本を読んで、子供たちが「1とは何か」を考えるとは限らないし、全く別のことを考えるかもしれません。ただ、こちらが切実さをもって考えていることを表出しないことには、読む人も刺激されないと思うんですよ。

――大人はどうやって読み聞かせをすれば良いですか?

 子どもに絵本を読んでもらうために、親が「まず自分が理解していないといけない」という発想は、世界を狭めてしまう気がします。「大人がわかっちゃう」ということは、既存の思い込みのフレームの中に入っているんです。それにとらわれず自由な読者に向けて書くというのが、絵本をつくる楽しみ。だから、いろんな読まれ方があって、例えば僕が考えもしなかったことを考えたら、それを教えてもらいたいですね。

 今回の本の帯には、「子どもはわらって楽しみ、大人は考えこんだ」とあります。読んだ子どもはけっこう笑うんです、本当に。学問って、笑いどころが満載なんですよね。実は想定外の連続が学問の歴史をつくってきて、試行錯誤の積み重ねで現在に至っているので、“笑っちゃう”というのは学問の大きな要素だと思うんです。

子どもたちに生き方を還元する“教育義務”

――ご自身が絵本を読むぐらいの頃はどんな子どもでしたか?

 数がすごく好きで、ケガをしたりしても、親が足し算の問題を出すと泣き止むぐらいでした。覚えているのは、繰り上がりの足し算を初めてできるようになった時に、机の下で指を折って数えて「7+5=12」と正解したんですけど。なぜか罪悪感を感じて「本当はボク、指を使ったんだよ」と言って。その時は、頭の中でやらなきゃいけないのに体を使ったのが反則だと思ったのかもしれません。

――お子さまは、数とはどう親しまれていますか?

 息子は2歳半になって、よくしゃべります。「お父さん、散歩でもする?」と言われると、「でも」ってどこで覚えきたのかが気になりますね(笑)。1歳ぐらいの頃からお風呂で一緒に1から10まで数えていて、リズムとして覚えるようになりました。3つのドングリを数えるときも、昔は10まで言っていたのが、最近では「1、2、3」で止まるようになったので、数えるということがわかってきたんだなと思います。

――「独立研究者」としての日常生活がどのようなものか気になります。

 基本的には、平日が研究で、週末は全国各地に出かけて講演活動やトークライブですね。自宅の近くに町屋を借りていて、そこを研究室として平日は執筆や読書をしたり、近所の子どもと数学の問題を解いたりもしています。子どもたちにとっては、いろんな人の話を聞いたり生き方を知ったりするのが大きな学びになりますし、僕たちが受けてきたいろんな教育を周囲に還元するのは“教育義務”でもあると思いますね。

――京都を拠点にされている理由は?

 考えるうえで僕は、時間の流れに飲み込まれずにいることが必要だと思っていて。京都にいると適度な距離感というか、東京にいた頃と比べて自分の時間の流れを持てるというのがあります。一緒に勉強をやったりする親しい人がいたり、僕が数学へと夢中になるきっかけを与えてくれた岡潔の過ごした場所だというのも大きいですね。

――絵は、マリメッコやSOU・SOUのテキスタイルデザイナーとして知られる脇阪克二さん。こちらも京都つながりですね。

 京都に引っ越した時に、妻と真っ先にSOU・SOUに行ったぐらいで、いつかお会いしてみたいという思いがありました。だから打ち合わせで脇阪さんの名前が出た時は驚いて、「ぜひお願いします」と。

「規則に従う」だけではない人間の未来とは

――次に絵本にするとしたら、どんな内容を考えていますか?

 実は人間って、破ることのできる規則に従って生きているんですよね。道徳的に生きないこともできるけど、あえて道徳的に振る舞う。「5+7=19」と答える自由を持っているけど、あえて「12」と答える。規則に従うのには、こっけいな面もあるけど、人間の英知もあって、なかなか奥が深い。その辺りのおかしさに気づいた子どもの視点から、探求をすることができればと感じています。

――その内容とも関連すると思いますが、今後取り組みたいテーマを教えてください。

 僕たちは自分の自画像を描きつづけているんです。学問をすることは、人間や生命はこうなのだという自画像を描き続けることで、その自画像が更新されてきた。現代の自画像において大きなウェイトを占めているのは機械やコンピュータで、それらのキャンバスで人間を描き出しています。 一方で人間は、自画像を通して自分を理解し、自画像に自分を似せていく。だから、その自画像を更新するなり磨きつづけていかないと、自分自身をより単純化してしまう。

 コンピュータや機械を通して人間を理解しようという歴史をさかのぼると、近代のヨーロッパで数学者や哲学者が「人間は理性的な存在だ」と考えて、理性とは何かを見極めようとしてきた歴史の到達点にあることが見えてくるんですね。理性というのは規則に従うことだというモデルが、現代の学校教育やいろんな場面に浸透しています。

――現代の人間にとって自画像でもある人工知能は、近代科学の到達点の一つとも言えますね。

 僕は、ここから人間観が変わっていくだろうと思っています。つまり、規則に従うだけのロボットは、知的にならなかった。チェスや将棋は強くなり、状況を固定してもらえていれば良いパフォーマンスをするけど、人間は規則に従う以前に、状況に対応して流れに寄り添うことができる。これも人間のもう一つの側面なんです。

 だから、近代が理性に注目して人間とそれ以外を区別してきたとすれば、これからは人間とそうでないものの連続性が強調される時代になると思います。人間は流れにまみれながら生きてきた生物であり、自分がその一部であるような世界に参加して、より深くそこに所属していくという生き方や分かり方が求められます。

 僕がやりたいのは、これまでの人類の思考を追いながら描き出し、人間は何者なのかというビジョンをつくりだすこと。規則に従ってデータを操りながら効率的に問題を解いていく。それとは違った方向で、人類の未来がありえるんだ、ということを提示できればと考えています。

イベントリポート・『どもる体』の伊藤亜紗さんと森田さんのトークが実現

 『アリになった数学者』の刊行を記念して10月18日、森田真生さんのトークショーが東京・銀座の教文館で開催された。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)や『どもる体』(医学書院)の著者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんを迎え、「からだをとおして考える 数とことば」をテーマにトークを展開。伊藤さんは「森田さんの功績は、数学に“粘り気”をもたらしたこと」と表現した。

 「私は元々理系で文系に転向し、理系に転向した森田さんとは逆のパターン」という伊藤さん。数学の成績は良かったそう。受験勉強で数学をやるときはトランス状態になり、「脳じゃなくて紙とペンが考えているという“アウトソーシング”の感覚が気持ち良かった」。だが、大学に入って「完全に抽象的な思考を自分の中にインストールすることにたぶん抵抗を感じた」と文系に進んだ理由を振り返った。森田さんは「数学はあえて乗っ取られるようなところがあって、外から与えられた規則に従って振る舞うことで、計算できるようになる」と解説した。

 二人は、子どもが受ける教育についても、親としての経験を踏まえて語り合った。伊藤さんは「幼稚園までは『わからない』と答えることはなかった。小学校に入って『わからない』という言葉が出てきてショックだった」。森田さんは「ルールが比較的安定していた頃は、ルールを身につけることが小学校でも重要だったと思うんですけど、今は社会の中でルールがすごい変わっていく。何より大事なのは、知識を覚えたりルールに服従できる能力を獲得するよりも、ルールの可変性を認識すること。それは大学に入ってからでは遅いと思う」と述べた。

 ウィトゲンシュタイン、ルイス・キャロル、ポール・ヴァレリーなどの名前も登場し、幅広い内容で盛り上がった今回のトーク。参加者からは「全盲の人が数学をやることが多いが、その関連性は?」といった質問が相次ぎ、二人は100分以上立ちっぱなしでも疲れを見せず、真剣に答えていた。