講談の師匠、二代目神田山陽のご自宅は東京の北新宿、昔は柏木と言われた場所にありました。
木戸をくぐると苔(こけ)むした飛石(とびいし)があり、玄関の袖垣越しに庭をのぞくと縁側が見える風情ある佇(たたず)まいでした。私が入門した昭和六十年、師匠は七十代で四人のご子息は独立し、奥様の多満子さんとのふたり暮らしでした。多満子さんは芸人の妻の呼称である「おかみさん」と言われることを嫌って、弟子たちには「奥様」と呼ばせていました。奥様が嫁いだときの師匠は芸人ではなく日本橋の大店(おおだな)の跡取り息子だったのです。師匠は結婚後に道楽で店を潰してしまい、妻子がありながら三十代で講談師になりました。戦争もあり、その後は家財をひとつずつ売っての苦しい生活だったのだそうです。
奥様はよく、御殿山のお屋敷に住み使用人が何人もいたころの話を聞かせてくれました。北海道のど田舎から出てきた私には、今の住まいも十分贅沢(ぜいたく)に見えたのですが、奥様は「こんなはずではなかった」という思いであろうことはひしひしと伝わりました。
奥様の拘(こだわ)りはとても細かく、最寄り駅から「ただいま駅におります。お買い物はありますでしょうか」と電話をすると、「あらそう、そうねえ」と考えるのですが、いつも買い物は決まっています。駅前のパン屋のロールパンを一袋。ヨード卵光を一パック。豆腐屋の木綿豆腐を二丁です。奥様は手の込んだ料理などしない様子でした。朝食はロールパン二個とエッグスタンドに立てたゆで卵とミルク。昼食は店屋物で、夕食を作っている姿を見たことがないのです。もしや木綿豆腐を一丁ずつ召し上がるのかと不思議でした。
ですから年末に師匠宅を訪れて驚きました。廊下に新聞紙を広げその上に使い込んだ両手鍋が五、六個並んでいたのです。昆布出汁(だし)のいい香りもしています。奥様が「どうかしらねえ」と蓋(ふた)を開けたのを見ると、焼き豆腐とがんもどきの煮物。ほかの鍋も椎茸(しいたけ)、人参(にんじん)、蓮根(れんこん)と、おせち料理の数々でした。「ちょっと味見」と小皿に焼き豆腐を取り分けてくれました。初めていただく奥様の手料理は長年の経験で培われたであろう母の味でした。料理はなさらないと決めつけたことを反省しつつ「いいお味です」と告げると、満足げにされていました。
元旦に弟子たち十数人が師匠宅に集まり、私は奥様の手料理が並ぶのだろうとわくわくしていました。ところがおせち料理は別室の、ご子息家族のテーブルにあってずっこけそうになりました。奥様にとって弟子は、使用人の感覚だったのでしょう。でも田舎者の私は別世界の奥様に仕えることが面白く、用事を言いつけられるのが楽しみになるような、大好きな存在でした。=朝日新聞2018年12月15日掲載
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