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劇団四季の照明デザイナーが語る貴重な戦後演劇史 吉井澄雄さん「照明家(あかりや)人生」

文:志賀佳織、写真:時津 剛

――劇作家や演出家の方のエッセイや評伝はありますが、照明家の仕事について書かれた本は珍しい気がします。「照明デザイン」という仕事は、具体的にどのようなことをするのでしょうか。

 照明によって、その舞台の時間や環境を作ったり、あるいは喜びとか悲しみ、怒りや絶望などの感情の表現にふさわしい空気を作り出したりする、というものです。演劇だったら、台本に書かれているト書きや台詞を読んで、そこから朝なのか昼なのか、戸外なのか室内なのかを光で表していく。喜びの表現に合った光の色や明るさはどうなのか、悲しみの場合はどうなのか、戯曲を読み込んで作っていくのです。舞踊などについては言葉がないので、音楽や音響、感情など、より抽象的なものに合わせて作っていきます。ひとつの舞台について、明かりを通して設計図を描いていくような仕事です。戦後、日本は、だんだん照明の存在感が大きくなって、演出家からの要求も複雑になっていきました。そこで、従来の照明主任にデザイナー的なことをやらせていったというわけです。僕はその最初の世代と言えるかもしれません。

――読ませていただくと、これは吉井さんという一人の照明家の半生でありながら、そのまま、戦後の日本の演劇史にもなっているという印象ですね。そもそも演劇の世界を志した経緯はどのようなものだったのでしょう。

 戦後、旧制石神井中学(現・都立石神井高校)に通っていたときに演劇部にスカウトされたのがきっかけです。しかも女形として(笑)。当時はまだ女生徒が学校にいませんでしたから、演劇部は女形を探していました。同級に水島弘道(のちの俳優・水島弘)という秀才がいたんですが、これが大変な美少年で、まず彼がハントされて、ついでに僕もということで入部させられたんですね。結局、すぐに「やはり演劇は女生徒とやらなければ」という空気ができて、近くの井草高女(高等女学校)に生徒を借りにいって一緒に芝居をするようになったので、女形はそんなにやらずに済みました。

 その頃、上級生たちが続々と海軍兵学校などから帰ってきて、彼らが中心となって演劇活動を盛り上げていったんです。彼らはのちに大学に進んでからも、高校生である僕らや井草高女の生徒たちを巻き込んで、「方舟」という劇団を作って活動していました。僕も大学に進んでからも、この「方舟」で演劇を続けていきました。おそらく戦後の荒れ地の中で、たまたま出合った演劇が心に触れたんですね。音楽に先に出合っていたら音楽に進んだかもしれない。とにかく誰もが文化的なものに飢えていて、そうした活動を謳歌できることに夢中になっていました。

――最初は俳優志望でいらしたんですね。

 はい。でも大挫折があったんですよ(笑)。初舞台は早稲田大学の大隈講堂を借りて上演したゴーゴリの「検察官」でした。これに水島と二人で出演したのですが、水島が朗々と台詞を喋って観客に受けたのに対し、僕と来たらもう頭の中が真っ白になって、台詞もしどろもどろ。「ああ、僕は役者としての才能はカケラもない」ということを思い知りました。役者は諦めるしかないと思ったものの、それでも演劇の周辺には居たかった。その頃には、演劇の魔力に捉えられてしまっていましたから。

 しかし、いざ演劇の周辺に居たいとはいっても、僕は演出をやるほど分析力がない。大道具や美術をやるには絵の才能がない。そうすると照明しかないなぁと、消去法で考えたらそうなりました(笑)。照明の仕事として初めて手がけたのは、劇団「方舟」の大隈講堂小ホールでの公演、福田恆存の「堅塁奪取」でしたが、どうしてもプロの照明家のようにはいきませんでした。もっと本格的に学びたいと思っていたときに、上級生の口利きで、NHKの音響効果の第一人者でもあった和田精さん(イラストレーター・和田誠さんの父)が、日本の舞台照明のパイオニアである遠山静雄を紹介してくださった。こうして、今度は遠山静雄の門を叩き、自宅に教えを乞いに週に一度通うようになったというわけです。

 遠山宅では「舞台照明」というテキストを基に、光学、物理学、電気工学、色彩心理学、劇場史などを学びました。最初は大勢いた仲間が一人減り、二人減り、最後まで残ったのは、僕だけでした。僕はもともとラジオの組み立てなんかが好きでしたから、そういう素地はあったのだと思います。

――遠山さんの弟子としての生活が始まって、いかがでしたか。

 一通り勉強を終えて、ものの数ヶ月もすると先生の鞄持ちで仕事先についていくようになりました。旧帝劇や新橋演舞場などの楽屋口から入って大劇場の舞台稽古を見られるようになったことで、毎日が新鮮で驚きの連続でしたね。ただ僕にとって遠山静雄はすごい存在でしたが、当時、舞台では大道具の集団が全体を我が物顔に取り仕切っているのが常でした。だから照明は彼らの仕事の隙を狙って仕事をするような、非常にその地位が低かったんですね。こんなことではいかんと思いましたね。

――そして、その修行時代の1953(昭和28)年に、いよいよ劇団四季の創立に参加されます。主宰の浅利慶太さんとの出会いがまた運命的ですね。

 そうですね。浅利とは同い年なのですが、出会ったのは私が石神井高校、彼が慶応高校の生徒のときです。当時、加藤道夫という劇作家が慶応の先生をしていて、浅利は加藤さんに私淑して、アヌイ、ジロドゥなどのフランス演劇を教わっていたんです。石神井高校でも諏訪正人(後年のフランス文学者・諏訪正)がジロドゥに傾倒して、加藤道夫さんに教えを乞うていた。あるとき加藤さんが「君たち、一緒に芝居をしたらどうだい」と言って、一度会おうとお見合いのようなことをやったんです。その中には、ともに劇団四季に参加した水島弘、井関一や日下武史もいました。いがぐり坊主頭の僕らに対し、慶応の連中は、髪の毛をはらりと揺らしたりして都会的でね(笑)。自分たちがずいぶん田舎者に感じられたことを覚えています。このことがきっかけになって「方舟」へ日下が客演するなど、互いに交流するようになりました。

 その頃、僕の家は西武新宿線の中井駅近くにあったので、帰宅時、高田馬場駅で終電車を待つホームに並んでいると、いつも長身の青年が声をかけてくるんです。それが、同じ沿線の上井草に住んでいた浅利でした。「君、今なにしているの」と聞かれて、互いの取り組んでいる芝居のことなどを話した後で、「いつか一緒に芝居をしたいね」と、よく会話をしたものです。この出会いがなければ、僕は四季に参加していたかどうかわからないですね。

 そして、1953(昭和28)年の7月14日パリ祭の日、創立メンバー10人が集まって劇団四季を旗揚げしたのです。翌54(昭和29)年の冬、芝の中労委会館でジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」で旗揚げ公演。これが僕の照明家としてのデビューになりました。今は劇団四季といえばミュージカルですが、僕らはフランス映画やフランス演劇に傾倒していましたから、アヌイかジロドゥの芝居しか上演しませんでした。

――浅利さんとは、その後も浅からぬ縁で、演劇界を動かしていく大きな仕事をしていかれますね。

 そうですね。そのひとつが日生劇場の設立です。年に2~3回の劇団公演と先生の助手だけでは食べられなくなった僕は、一時期、開局直後のテレビ局で働いていたのですが、ある日、そこへ浅利から電話がかかってきた。「日本生命が東京本社として建てるビルの中に劇場を作る。何か新鮮なアイディアはないかね」というんです。そこで、僕は「今、日本の劇場はどこも長い潜水艦のような部屋に大きな鉄の塊の機械を置いて照明をコントロールする調光をやっているけれども、最新の調光装置はトランジスタの一種で、シリコン・コントロールド・レクチファイヤー、略してSCRという半導体素子を使って、極めて小型・軽量になってきた。若い女の子が指先でも操作できるし、予め照明をプリセットしておけるから、どんなに早い照明変化にも対応できる。日本の劇場はまだどこも設備していないから、これを提案してみたらどうだろう」と言ってみました。すると浅利も「面白い。よし、SCRのプリセット式でゆこう」ということになりました。

 後日、プレゼンに浅利と大阪の日本生命本社に行ったところ、待っていてくださったのは日本生命の弘世現社長と設計者の村野藤吾氏の二人だけ。浅利は演出家ならではの説得力ある語り口で、「もしも日本生命が劇場を作るのであれば、スエズ以東で最良の劇場を作るべきだ」と訴えました。この「スエズ以東」というのがミソでね。つまりロンドン、パリは入っていないんです(笑)。それ以外で最良のものを作ろうと。そして僕も、半導体を使って女性でも簡単に扱えるような調光器を取り入れた劇場が必要だと主張しました。そうしたところ、二人は「ふうん、わかった」と。そして一週間ぐらい経ったら日本生命から電話があって、日比谷の劇場の建設現場へ行ってくれと。そこで今の話をしてほしいと言われたんです。しかし実はもう骨子は現場へ届いていたんですね。そこから現場は方向転換して一大事業が始まったわけです。スケジュールは遅れる、予算はめちゃくちゃになる。大変不満だったと思うんですけれども、弘世さんと村野さんの英断で、最終的に僕らの意見が取り入れられました。今考えると、僕らまだ29歳でしたからね、よく二人がやらせる気になったと思いますね。

――こけら落としはベルリン・ドイツ・オペラの招聘公演でした。これは、吉井さんにとって照明家としての分岐点になった作品だそうですね。

 はい。こけら落としは1963(昭和38)年でしたが、事前に西ドイツに打ち合わせに行った時点で、我が国との設備のあまりの格差に驚きを禁じえませんでした。招聘するにあたり、先方のシステムは取り入れるようにしたものの、何より驚いたのが、開場1年半前頃から、次々と送られてくる演目ごとの舞台装置製作図面、模型舞台、材料見本、写真の数々です。その図面と資料は建築図面と同じくらいのレベルで、細部に至るまでいろいろと書き込まれていたんです。自分たちの劇場やオペラについての知識や経験も、組織のあり方も、いかに貧困かということを思い知らされました。

 そして、上演されたオペラ「フィデリオ」と「フィガロの結婚」は古今未曾有の名演で、今も鮮やかに記憶されています。その少し前から、制作面の仕事に重心が傾いていたところでした。これに出合わなければ、そのまま制作の仕事に従事していたかもしれません。しかし、この舞台に出合ってしまったら「照明家の道をまっとうしよう」という思いがこみ上げてきた。照明家人生の大きな転機だったと思います。

――吉井さんは、その後、オペラのほうにもお仕事の場を広げられ、これまでに1500もの舞台を手がけてこられました。この60年間で、照明の技術も大きく進歩したと思いますが、いちばん大きな変化は何でしたか。

 それは70年代の後半にコンピュータが入ってきたことですね。コンピュータを使ったムーヴィングライトができたことで、脚立を持っていちいち向きを変えなくても、遠隔操作でスポットライトを動かせるようになった。それと、照明をデザインして、どのスポットがどれくらいの明るさかということを全部データで書くわけですが、これも全部コンピュータに入れられるようになりました。これによって「秒単位」の変化をつけられるようになったことが何よりドラスティックな変化をもたらしましたね。

――照明をデザインするときに、上手い、下手ってどういうところにあるんでしょうか。たとえば皆さんが「ぜひ、吉井さんにお願いしたい」と思うとき、ほかの人と違うのはどういうところなのでしょう。

 上手い、下手というのは、やはり絶対的にあるんですね。それは照明の仕上がりの技術的な面においてです。僕はそれについては、誰よりもうまいという自負はあります。あと大事なのは、台本を読んで、ひとつの時間の設計図を作る。そのときの見せ方の発想とかセンスだと思います。

 85年に浅利と組んで、ミラノ・スカラ座で「マダム・バタフライ」を上演したことがありました。スカラ座は、レパートリーシステムを採っているため、照明はあくまでも演出家や装置家の指示を受けて動く技術部の「職人」という位置づけだったんです。そこへ日本から「照明デザイナー」がやってきたので、最初はいい顔はしなかった。でも、こちらの演出を見て、次第に気持ちを変えていったんです。

 私たちの演出はこうでした。開演前から緞帳は開いていて、前奏曲が始まる前に舞台では、日本の家屋の建込みをして、どのようにできていくかを見せていく。畳が入れられ、障子が入って家が完成すると、家は下手に移動し、中央はホリゾント、ここまで舞台は一切色のないモノクロームの世界です。やがてコーラスの声が舞台奥から聴こえてくると、ホリゾントに空と海のブルーが見えてくる。舞台は次第に明るくなり、マダム・バタフライがコーラスの傘に隠れて登場し、中央で傘が割れて花嫁衣装の全身が見えるとき、最高の明るさになり、カラフルな舞台になる、といった感じです。最後の自決のときは、白い光の下、白装束で白い敷物に座り、白い布が引き抜かれて深紅になることで表現したのです。これを見て、スカラ座の連中も、劇の中身についた光がそこにあるとわかったんでしょうね。

 私はドイツ・ベルリン・オペラからも影響を受けましたが、長年、コーちゃんこと越路吹雪さんと仕事をさせてもらったことで、腕を磨けたんですね。越路さんの歌と、内藤法美さんの音楽と、岩谷時子さんの言葉に、どうやって色の変化、動きをつけていくか。時間を合わせていくか、それを何度も何度もやったことが、後の蜷川幸雄との仕事に役立ち、ミラノ・スカラ座にも役立ったんです。コーちゃんには、その意味で本当に感謝しています。

――今も、毎日のように劇場に足を運んで、たくさんの舞台をご覧になっているそうですね。

 いやあ、去年は浅利が亡くなって、日下(武史)も亡くなって、蜷川ももういないでしょう。ああいう盟友がいなくなって寂しい限りです。もう見る側に回るしかないですね。ただ、初演はもう無理ですが、再演はぼつぼつやっていこうかとも思っています。今年は長年のつき合いのある松本白鸚の「ラ・マンチャの男」がありますので、これはやらせてもらおうかと。

――これから照明家を目指したいという若い人たちに、何かメッセージをいただけるとしたらどんなことでしょう。

 やっぱり、演劇、オペラ、舞踊、そのどれでもいいから、それがなければ生きられないというくらい好きになること。それが第一ですね。そのうえで、次に、やはり新しい技術に対する目配りを常に持っていなければいけない。それを自分が取り組む作品にどう活用するかを常に考えていくことでしょうね。今は徒弟制度ではなく会社システムになりました。僕は徒弟制度であるべきではないと思うので、そのほうがいいと思うのですが、やはり功罪ありまして、つまり給料をもらって生活は安定する反面、忙しくなりすぎる。だから、勉強のためにオペラや演劇を見るという勉強の時間がないんですね。なんとかできるだけ時間を作って新たな何かを吸収する努力を惜しまないでいただきたいです。

――最後に、今後の吉井さんの目標をお聞かせください。

 僕はもう自分の初演はできないので、僕を超える照明デザイナー、音響のデザイナー、衣装のデザイナー、舞台美術のデザイナー、そういった人たちを発見したいんです。演出家もそうです。そして、そういう人たちの仕事がうまく連携して回っていくように手助けをしたい。いろいろな人たちを引き合わせて結びつける、そんな役割を果たせたら嬉しいなと思います。