1. HOME
  2. インタビュー
  3. 私の好きな文庫・新書
  4. 中村吉右衛門さんが好きなカミュ「異邦人」

中村吉右衛門さんが好きなカミュ「異邦人」

中村吉右衛門さん=東京都中央区銀座の歌舞伎座、篠田英美撮影

悩み多き時期に、ぴたっときた

 小学生の頃から岩波文庫を買ってもらい、活字の印刷のにおいがないと安心できないくらい本が好きでした。

 この小説に出合ったのは17歳の頃。ギラギラした太陽と海の描写が見事で、海好きのせいもあって、主人公ムルソーが海で恋人と戯れる光景などに憧れました。殺人の場面でも、太陽が照り輝く。何発も銃弾を撃ち込む描写が衝撃的でした。
 深く共感したのは母の死に涙一つ流さないムルソーの心。小学時代、愛する養父の初代中村吉右衛門が亡くなった際、私も泣かなかった。周囲には泣き騒ぐ声。でも涙が出なかった。
 しかも、読んだ当時、役者として自信がなくて辞めようとすら思いつめていた。悩み多く希望なき時代、作品の不条理さがぴたっときた。“歌舞伎の異邦人(エトランゼ)”の気分でしたね。歌舞伎は一般社会に即したものが多いですが、これは社会から飛び抜けた世界。歌舞伎から飛び出たい心境に拍車がかかり「そうだ、渡仏して、ジゴロになりたい」と夢見たりしました。
 彼は裁判で現実の世界と関わる。法や宗教が迫る。克服しようとする。ムルソーは、神すら乗り越え、自分の道を見いだそうとするのです。
 この作品のことを思うと、今でも郷愁にとらわれます。そして、フランスへの甘い憧れが、しみじみと心に満ちてきます。(聞き手・米原範彦、写真・篠田英美)=朝日新聞2019年1月12日掲載