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全身が脳 対極の人間を照射する 朝日新聞読書面書評から

タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源 著者:ピーター・ゴドフリー=スミス 出版社:みすず書房 ジャンル:生命科学・生物学

価格:3240円
ISBN: 9784622087571
発売⽇: 2018/11/17
サイズ: 20cm/254,39p

進化は「まったく違う経路で心を少なくとも2度、つくった」。1つはヒトを含む脊索動物、もう1つはタコやイカといった頭足類。知能の高さゆえの行動など、人間とはまったく異なる心…

評者:野矢茂樹 / 朝⽇新聞掲載:2019年01月19日

タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源 [著]ピーター・ゴドフリー=スミス

 小論文の問題には、ただ一言“other mind”とあった。私は理系を卒業して、しかし何もする気にならず、これといったあてもなく、三年生に編入する学士入学の試験を受けた。そのときの私には、それが哲学の問題であることさえ分からなかった。
 本書のメインタイトルもまさにOTHER MINDSである。自分以外の存在の心のあり方をどうやって知りうるのか。かつて現代哲学ではこの問題の脈絡でコウモリが取り上げられた。だが、ゴドフリー=スミスはタコこそがこの哲学問題の最適の題材だと言う。いかにコウモリの認知の仕方が独特とはいえ、哺乳類ではまだ甘い。頭足類である!
 もしタコになれたならば、私はどんな経験をすることになるのだろう。タコにとって世界はどのように開けているのだろう。ある生物にとっての経験の主観的なあり方は、脳や神経系の働きを客観的にいくら調べても分からない。それは科学では踏み込めない領域なのである。かくして、これは哲学の問いとなる――タコであるとはどのようなことなのか。
 貝のような軟体動物の中に、進化の過程で殻を脱ぎ捨てたものがいた。その極端がタコであり、殻はまったく失われ、自由自在に形を変えることができる。そしておそらくは形の定まらない体と無際限な可動域のおかげで、全身でニューロンが発達した。全身に脳が広がっていると言ってもいい。腕だけが単独で勝手に対象を認知して動くこともできるという。しかもタコのニューロン数は犬に近いらしい。かなり頭がいい。いや、「頭がいい」とは哺乳類系の比喩であった。頭じゃなくて、タコは全身これ賢いのである。
 そんなタコの経験は、いったいどのようなものなのか。ゴドフリー=スミスは哲学者であると同時にタコ学者であり、なによりも海に潜ってタコのそばにいることが大好きなタコ愛の人である。しかし、タコのことなら何でも分かるとばかりに面白おかしく語ることはしない。哲学者として、謎をだいじにし、答えに向かってゆっくりと進んで行こうとする。タコのことを知り、タコについて広く、深く、科学的にそして哲学的に考えることによって、逆に人間に対するいままでの考え方が揺さぶられることになるだろう。しっかりした形状の体をもっていること、頭にある脳が全体を統括していること、確固たる自我意識をもっていること。こうした人間のあり方が、その対極にあるタコによって新たな光を当てられる。
 いっそ人間やめてタコになろうかね。海の底でさ。そんな妄想に耽り、ちょっぴり身をくねらせてみたくなったりする。
    ◇
 Peter Godfrey-Smith 1965年、シドニー生まれ。シドニー大教授およびニューヨーク市立大兼任教授。専門は生物哲学・科学哲学。自ら海中撮影した写真は専門誌に取り上げられている。