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食文化のちがい 宮城谷昌光

 私は中学生まで蒲郡(がまごおり)市内にいて、高校生になってはじめて豊橋市を知った。だが、豊橋も愛知県内の東部にあって、文化形態にさほどのちがいはなかった。
 衝撃をうけたのは、東京に行ってからであろう。
 とにかく大学生になるまでに、いちども食べたことのないものを食べることになったおどろきは、文化のちがいをはっきりとわからせてくれた。
 私が下宿することになったのは、豊島区高松の近藤家で、そこは賄(まかな)い付きであった。最初に近藤オバさんからいわれたことは、
 「夕食の時刻に遅れたら、その日の夕食はありません。食べ残したら、二度とあなたの夕食は作りません」
 ということであった。好き嫌いなどをいっている場合ではなかった。私は食卓にだされた物をなんでも食べた。そのおかげで、偏食がだいぶ直った。笑われるかもしれないが、白菜の漬物をそこではじめて食べた。実家で漬物といえば、沢庵(たくあん)漬けしかなかった。近藤家の食卓を囲む下宿人は私をいれて三人だが、外から夕食を食べにくる会社員がいた。かれは旧下宿人ということであった。白菜の食べかたは、醬油(しょうゆ)につけるだけでなく、七味唐辛子(とうがらし)をふりかけた。みな慣れたものであった。くさやの干物(ひもの)も、そこで食べた。よくよく考えてみれば、
 ――保存食が多い。
 と、わかる。鮭(さけ)もそうである。東京は生(なま)の物から遠い。生魚がたやすく手にはいる蒲郡にいたとき、魚の干物がなぜ必要なのか、わからなかった。
 東京の街を歩いてみると、うどん屋がみつからなかった。みな蕎麦(そば)屋である。蕎麦も東京ではじめて食べた。調査したわけではないので、断定はできないが、愛知県のあたりから西は、うどん文化圏ではあるまいか。食文化の高低をはかる基準は、その地域にどれほど料理の名店があるかということではなく、家庭の食卓がどうか、ということであろう。私はうどんがある食卓と蕎麦がある食卓をくらべてみたりした。しかしながら、そういう比較の意義を失わせ、食文化の色わけを潰したのが、昭和四十年代からはじまったラーメンの驚異的な伸張(しんちょう)である。ある家庭の子どもが、
 「今日の夕食はごちそうだよ。ラーメンだもの、うれしいな」
 と、いったのを、いまでも忘れない。うどんも蕎麦も、残念ながら、子どもにごちそう感を与えられない。ラーメンをごちそうといわせるのが東京の食事情であろう。当時、その良否については判断がつかなかった。
 とにかくラーメンは中華そばという概念を打ち破り、ついに私も好むようになった。=朝日新聞2019年2月23日掲載