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「天然知能」とは 小説家・磯崎憲一郎

横尾忠則 See You Again 2002年 個人蔵(米国)
横尾忠則 See You Again 2002年 個人蔵(米国)

未知なる「外部」との出会い

 理学者の郡司ペギオ幸夫が新著『天然知能』(講談社選書メチエ)の中で、とても興味深い概念を紹介している。もともと計算機やコンピューターは、人間の知性の機械化を目的として発明されたものだが、それらへの依拠が進んだ現代においては、自らの知覚可能な全てを、質的な違いも含めて悉(ことごと)く数量に置き換えることで比較・評価し、自らにとって有益か否かの判断をする、「人間の人工知能化」ともいうべき転倒が起こってしまった。それに対して、見ることも聞くことも、予想することすらできない、しかし間違いなく存在する「徹底した外部」を受け容(い)れ、その「外部を生きる次元」にまで踏み出す知性こそが「天然知能」であると、著者は定義する。
 例えば、主に東南アジアに分布するウツボカズラは、葉の主脈の長く伸びた先端に蜜を分泌する捕虫袋を持つ食虫植物だが、このウツボカズラが大型化したオオウツボカズラは、大型化したが故に昆虫だけではなく小動物まで誘(おび)き寄せてしまう、するとこの植物は小動物の肉体は捕獲せずに、小動物の落とす糞(ふん)から栄養を取り始めるのだという。こうした、当初想定された機能の「外部」の機能が実現されるような、形態と機能の間の自由さ、融通無碍(ゆうずうむげ)さが進化には不可欠であり、「進化し得る生物とは、外部を受け容れる天然知能」に他ならないと本書では説かれているのだが、じつは作家にとって小説を執筆するという作業も同じで、一文一文分け入るように書き進むたび、未知なる「外部」と出会い、それを受け容れることで自らが拠(よ)って立つ世界も刷新される、その繰り返しなのだ。
    ◇
 「あの石を、とうとう拾って来なかったな」。古井由吉の連作集『この道』(講談社)に収められた一篇(ぺん)「たなごころ」は、語り手が唐突に耳にした、見舞いに行った病人が悔やむように発した一言から始まる。石といっても何の変哲もない、道端に落ちていた黒くて丸い石だった、ほとんど忘れかけていたようなその石が、夜中に病人の背中を何度も引くのだという。帰り道、やつれた甲に比べて意外にもふくよかだった病人の掌を思い出しながら、小説は、左手に一寸の針を握りしめて生まれたと伝えられる、性空(しょうくう)上人の話へと進み、そこから更に、四十五年以上昔、自決した作家の追悼の場で弔辞として送られた孔子の言葉をめぐって、生死の境界の曖昧(あいまい)さ、不可思議さについて語られた上で、ついには次のような文章へと至る。「ただ明日と言うだけでも、一身を超えた存続の念がふくまれてはいないか。一身を超えていながら、我が身がそこに立ち会っているというような」
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 文学的達成ともいうべきこの作者独自の語り口で、枯れていながら生々しく艶(つや)やかに、止め処(ど)なく生成されるこの作品は、同じ作家の端くれとしてほとんど確信を込めていうのだが、予(あらかじ)め構想されて書かれたものではない。創作の渦中にある作家にとって、新たな文章とは、そこまでの文章を書いたことでそのとき初めて見出(みいだ)される、苦労して切り拓(ひら)くことによってそこで漸(ようや)く出会う、正しく未知なる「外部」なのだ。たとえそれが作者の過去の記憶であったとしても、その文章が書かれなければ忘却の奥底に沈んだまま、けっして召喚されなかった記憶であるという意味で、やはり「外部」であることに変わりはない、『天然知能』でも述べられている通り、「むしろわたしの内部に、外部・他者を内蔵している」のだ。
 「たなごころ」は後半、若き日の語り手が山を旅する姿が描かれる。峠へ向かう道の先を歩く、健脚の老人の後を静かにつけていくと、一休みしたところで不意にその老人から話しかけられる。「女を知っているのか」。途切れがちの短い会話を終え、老人が立ち去るとそこには、見舞いに行った病人から聞いた、「黒く脂光りするまるい石」が置かれている、目の前で世界がすり替えられたような鮮やかな読後感を残して、この作品は終わる。=朝日新聞2019年2月27日掲載